書評
『幻のアフリカ納豆を追え!―そして現れた〈サピエンス納豆〉―』(新潮社)
追い求め、分け入り、辿(たど)り着いた壮大な仮説
高野作品を読む行為は「巻き込まれる」なんて言葉が似合う。世界各地にある「未確認納豆」を探し求める一冊、アフリカ納豆のエリアはイスラム過激派が活性化しているエリアばかりなので「納豆が陰でイスラム過激派の糸を引いている」のだろうか、なんて筆致に、そうに違いない、なんて思い始めてしまう。納豆といえば日本の食べ物でしょ、という権威主義への疑いを持続させながら、ナイジェリア、セネガル、ブルキナファソ、韓国などを旅する。治安の悪い場所を駆け抜けながら、納豆らしきものは本当に納豆なのかと問い、納豆ではないような気がするものをもしかしたら納豆なのではないかと期待する。
韓国の山深いところで、まさかの「隠れキリシタン納豆」と出会う。ブルキナファソでよく食べられている「スンバラ」を探しに出向く。バオバブの木かから納豆が作られていると聞けば、奥地へと入り込む。
納豆地図がどんどん広がっていく。行く先々で、「強力な納豆健康神話」がある。「粘り強い」取材の末に、壮大な「サピエンス納豆仮説」を打ち立てる。
あらゆるところに生活がある。意識せずに守られてきたものがある。それをしつこく集めて束ねたら、そこには、人間とはどこからやってきて、どこへ行くのか、という壮大な視点が生まれる。「私の推理を、納豆は天の彼方からひっそりと笑っているような気がする」
すっかり巻き込まれた読者は、やはり、ええ、そうに決まっていると信じ込む。納豆に洗脳される高野に洗脳されることで、こちらも納豆に洗脳される。なんなんだ、このコミュニケーション。納豆に粘着質に挑む、という言葉遊びのような取り組みから、人類史が、世界史が、豪快に立ち上がってくる。
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