書評
『指導者論』(新潮社)
政治は言葉を取り戻せるか
二十一世紀になって、本書の最終章(「政治蘇生」のための提言)を読み返した時、人はいかなる感慨を持つであろうか。外交立国論、政治指導者論、議会改革論。いずれも政治に言葉を取り戻すことを提言の基本にすると言う。はたして今も昔も変わらないと相変わらずため息をつくことになるのか。それとも世紀末の日本は何と大変だったことよと過去形で語れるようになるのか(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆年は1996年)。本書の結論は、このようにきわめて明快だ。しかしそこに行きつくまでの時空を超えた引用の豊富な時事評論の体裁をとった本論には、常に一刀両断をためらう著者の姿が窺(うかが)える。というよりもむしろ著者は、一刀両断によって削ぎ落とされてしまうものの方に可塑性を感じているのだ。代議制民主主義の限界はわかっている。だがそれにかわる政治システムはまだ見つからない。だとすれば……。
著者はそこで現実の政治家を評しながら煩悶(はんもん)する。阪神大震災の際の初動の遅れは、村山富市だからなのか制度のせいなのか。青島幸男に投票する気持ちもわかるが、やはりこれは民主主義の自殺なのではないか。どの例をとっても、そこにはスパッと切ってしまえないもどかしさがある。読者はそれを著者と共有するうちに、今の政治の絶望的なまでの出口のなさを実感することになる。
だが同時に著者は、「孤独な政治家」というカテゴリーを立て、そこから言葉と政治の問題に迫り、出口を見つけようとする。いったい孤独な政治家とは誰のことか。河野洋平、石原慎太郎、小沢一郎、細川護煕、青島幸男、武村正義、宮沢喜一、後藤田正晴、それに橋本竜太郎。何だ、有力政治家総嘗(な)めではないかとの茶々は入れまい。何しろ孤独なために本当の気持ちが発酵するまで人にはわからず、決断が表に出た時、世間には唐突に見えるタイプとの著者の定義に照らせば、多かれ少なかれみなそうなのだから。
要は、政治家がなべて言葉を失ってしまったことにある。しかし言葉の喪失に陥ったのは政治家だけではあるまい。著者が属するジャーナリズムの世界もまた同罪であることを、著者は本書で再確認しているのである。
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