書評
『百歳の景色見たいと母は言い』(小学館)
「独り」ではないこと、諦めないこと
百一歳の誕生日を二か月前にして旅立った、母を巡る凄絶(せいぜつ)な(という形容詞が、誤解を生まないことを祈るが)介護の物語である。表現者である著書の人柄の、幅広さと暖かさ、そして率直さに裏打ちされた言葉による表現が、読者の心を豊かに叩(たた)く。「凄絶」という表現を使うことに躊躇(ためら)いがあるのも、本書の読者は、どこかほっとした安堵(あんど)感と人間への信頼感を感じて読み終わるからであり、そして著者自身や著者の描く家族、あるいは様々に助力を惜しまない人々の人間性が、突き詰めたところでの肯定感と、選ばれた言葉とで熱く語られるからだろう。
とは言っても、医師である連れ合いを失った末に、老境に入った母なる人の時間は、「凄絶」でもあったようだ。八十歳代後半には、直接死には至らなかったが脳梗塞(こうそく)の発作が繰り返されての入院、重ねて脳出血、そして病院でのベッドから落ちての骨折が追い打ち。ここからが母子の闘いの始まりだった。
現代社会には、ありふれた構図の一つかもしれない。そして私的な、しかも、優れて人気のある俳優の、家庭の姿を覗(のぞ)き見る。そんな不遜な思惑を、しかし根底から吹き飛ばすほど、本書の内容は、私的であるばかりではなく、公的に、つまり、現代の高齢者問題に関して、制度的にも、人間的にも、考えなければ、あるいは考え直さなければならない、様々な問題があることを、肩肘張った形ではなく、ささやかなエピソードを重ねる形で、静かに問うているのでもある。
例えば、最早(もはや)ほとんどまともな意識を持たないような姿を見せていた高齢者が、愛情に満ちた家族の話しかけの繰り返しのなかで、表情を取り戻し、言葉を回復する僅かな兆しを見せたとき、著者はそれを見逃さず、決して諦めることはない、と自らの教訓にする、小さなエピソードにも、その小さな教えが、実は如何(いか)に大切かを、読者に伝えてくれる。そのエピソードでも判(わか)るが、本書では、著者の周囲に、気遣ってくれる仲間や、療養の同僚や、施設などの医療者が登場する。「独り」ではないことが、どれだけ、こうした状況の中で助けであり、救いであることか。
と同時に、現代の医療制度の中で、通常の医療機関が治療に当たった患者の面倒を見る時間が、限られており、リハビリも含めて、その後の毎日をどのように医療機関や関連施設を利用すればよいのか、豊かな教訓に出会うことが出来ると同時に、その際に、必ずしも利用者の側の便宜を充分に考慮したとは思えない形で制度が存在している有様を、著者は自身の経験を語ることによって、静かに告発しているように思われる箇所も少なくない。
それにしても、こうした苦闘が続く中、「高齢者に寂しい想(おも)いをさせてはいけない」という原則を自らに課した著者が、九十歳を超えた母を、アメリカのオレゴンでのイヴェントに連れていく件(くだり)などは、その勇気と行動力に驚かされる。
評子自身、今年九十歳を迎えるが、宿痾(しゅくあ)はあるものの、日常あまり他人の助けを借りない生活が出来ている幸せを嚙(か)みしめつつ、殊の外の感慨を以(もっ)て読み終わった。
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