書評
『邂逅』(藤原書店)
病をへて「人間」を問う往復書簡集
脳梗塞(こうそく)で倒れられた免疫学者の多田富雄さん、脳出血で倒れられた社会学者の鶴見和子さん。ともに半身不随の身になり、ひとりは覚えたてのワープロで、ひとりは録音テープに吹き込んでしたためた、一年間にわたる往復書簡だ。鶴見さんが、日々の天候によって自分の脚の痺(しび)れ具合、痛み具合が刻々と変わり、身体障害になってそれだけ私は自然に近くなったと言うと、多田さんは「私の場合は、麻痺(まひ)した右半身が、自然をいつも裏切っているような気がしています」と応える。
鶴見さんが「全身に血がめぐる、酸素がゆきわたる、そういう感じがからだのなかにみなぎってくることによって、頭もはっきりしてきた」と言えば、多田さんは、命がけの歩行訓練のなかで最初の一歩を踏みだしたとき、「私の中の鈍重な巨人がゆっくりと歩み始めたのを感じた」と応える。
多田さんは、意識が回復したとき「隅田川」「歌占(うたうら)」といった能のテクストを始めから終わりまで謡うことで自分を確かめ、鶴見さんは、倒れたその晩から夢のなかで短歌が噴きだしたといい、いまはリハビリに大好きだった舞をとり入れているという。ともにからだの髄に伝統文化を通すことで生死の境を越えた。
この共通の経験を吟味するなかから、社会のなかの人間と生命体としての人間のあいだの「階層」の差をめぐる生命科学と社会学のバトルが始まる。詩歌に根ざした科学のあり方、創造性の意味、免疫現象から社会システムをつらぬく「自己」という概念について、それぞれの研究の核心をつく掘り下げた議論が続く。そこで共有されているのは、異なるものが異なるままに共生することの意義への、言葉の上澄みにはとどまらない深い問いかけだ。
遠慮のない知的なバトルが、こんないたわりの言葉とともに交わされる例をわたしはほかに知らない。ほんとうの学問というのはその外部を深く包容する。それを究めると、こんなにも端正で奥ゆかしくなるものかと、ちょっと胸が熱くなった。
朝日新聞 2003年8月10日
朝日新聞デジタルは朝日新聞のニュースサイトです。政治、経済、社会、国際、スポーツ、カルチャー、サイエンスなどの速報ニュースに加え、教育、医療、環境、ファッション、車などの話題や写真も。2012年にアサヒ・コムからブランド名を変更しました。
ALL REVIEWSをフォローする










































