書評
『日本史再発見―理系の視点から』(朝日新聞)
「なぜ?」が生む歴史の楽しさ
ものを考えるとは、どれだけ固定観念から遠ざかるか、ということでもある。今日の学校教育は教科書の記述を暗記して点数を競うので、書かれたことを疑う精神が育たない。歴史の教科書なども権威主義で固定観念が支配していることが少なくない。固定観念から脱却するにはどうしたらよいか。どれだけの「なぜ?」をもつかに尽きるのだ。柔軟な問いは、仮説を生むからである。本書の著者は、つねづね「仮説実験授業」を提唱してきた。僕の仕事もつねに仮説からはじまり謎(なぞ)解きに進むから、著者の主旨に同感できる。
例えば進歩とはどういうことだろうか。乗り物の歴史上の変遷は日本では「牛車→乗馬→駕篭(かご)→人力車→自動車」だった。だが最も進歩した乗り物である自動車を前提にすれば、平安時代に用いられた牛車に較べ江戸時代の駕篭は二人の担ぎ手が一人の客を運ぶから一種の退歩に見える。「他人が担ぐ―駕篭」「動物に乗る―乗馬」「他人が引く―人力車」「動物が引く―牛車」「機械が動かす―自動車」の順が正しいとなる。
ところが最も非合理的と思われる駕篭について、十八世紀に来日したオランダ東インド会社の医者ツンベリーは「これほど便利な乗り物を見たことがない。まさに移動する部屋の如きものである。余程長い間このうちにいなければ疲れは覚えない」と感嘆していた。
著者は、なぜ日本で馬車が発達しなかったのかと疑問を呈し西洋の馬車の歴史を調べていくうち、十八世紀のロンドンで「セダン」と呼ばれる駕篭が流行った事実をつかむ。二人で一人の客を運ぶのは同じだが、囲いのなかで椅子(いす)に座るところが違う。未舗装の道路では馬車よりも乗り心地がよいのはあたりまえなのだ。馬車の問題点はサスペンションや、後にレールの開発で解決されていくが、山道が多いとそうはいかない。江戸時代の京都では凹型の石のレールのうえを牛に荷車を引かせて走らせていた事実があったなど、「再発見」を楽しむことができた。
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