書評
『犬―他一篇』(岩波書店)
嫉妬と獣欲の物語
一冊の本について、もしそれを正確に本の終わりからはじめへと要領よくたどるなら、これにまさる評はないのでは、と考えている。たとえば『アンナ・カレーニナ』の最後の場面、アンナが汽車に飛びこむところから冒頭の、「幸福な家庭はどこも似たりよったりだが、不幸な家庭はみな違っている」という文章まで、流れに逆らってたどることができればちょっとしたものだ。因果関係でいえば、果から因へ、迷路遊びなら出口から入口へ進む。すべてのエピソード、思想をその背後から把握する。一頭の牝犬が、一瞬もとの娘の姿に変わって、狂喜の叫びをあげながらかっと開いた奈落の底へ堕ちてゆく。愛し抜いた異教徒の青年の眠る闇の中へ。
これが中勘助『犬』のラストシーンだ。
牝犬は、ひどく弱って毛がすっかり抜けた醜い牡犬と無理強いの夫婦生活を続けてきた。彼女は隙をついて二度目の逃亡を企てるが追いつかれてしまう。そして、人間の娘時代に凌辱されたが、その男ぶりを忘れられない異教徒の青年を、夫がビダラ法なる必殺の呪法で殺していたことを知る。ついに牝犬はすさまじい怒りに燃えて夫の喉くびに食らいつき、殺したあと、恋人の墓に身をすりつけ、一瞬娘の姿にかえったのち、死んでいったのだった。
夫婦生活は地獄だった。そもそもどうして夫を愛することなどできようか。娘ざかりの身を犬に変えられて、ひたすらうしろからのしかかってくるばかりの夫との性交はただ嫌悪しか呼び起こさない。しかし、四匹の仔が生まれた。心は異教徒の青年にあっても、身は悲しい犬の身。仔犬に乳をふくませていると、ふと幸福を感じたりもする。どうじゃ、夫婦というものはいいものじゃろ、と夫はにたにた笑う。
馬上のあの人に抱かれる夢をみて最初の逃亡を企てたこともあったが、もう一歩のところで半狂乱で駆けつけた夫につかまった。
彼女が異教徒の子を宿していて、彼にいつか会いたいと森の猿神に願掛けに通ううち、印度教の体中かさぶただらけの五十前後の苦行僧の横恋慕によってざんげさせられ、異教徒の子など地獄に堕ちるぞと脅され、シバのお告げだと称して腹の中の子供を手でもみ殺された。苦行僧にとっては生涯はじめての女の肌のなめらかさで、気を失った娘を犯したあと、苦行などくそくらえ、この味が忘れられるかよ。しかし、自分は醜い。どうすれば娘をそばにおけるか。娘を犬に変え、自分も犬に変身して、畜生になって添いとげるしかない。こうして僧犬と牝犬の夫婦生活がはじまる。
『犬』は大正十一年四月号の「思想」に二十九個所を伏字にして発表されたが、発禁処分になった。これがあの『銀の匙』の作者か、と驚くほどの露骨な男女の嫉妬と獣欲の生々しい描写に出会う。そして、われわれがこの小説の冒頭部分、苦行僧と娘、娘と異教徒の青年の出会いの場面をこえて、さらにさかのぼってゆくと、幼い頃から不仲だった兄と、その兄の妻となった女性に同情し、ひそかに恋いこがれた中勘助、という現実の三角関係にまでたどりつく。苦行僧=兄、娘=義姉、異教徒の青年=作者。
そして、処女作『銀の匙』の末尾には既に兄の妻が美しい「姉様」として登場してくるし、『蜜蜂』では、結婚まもない兄が単身ドイツへ留学している間、義姉と弟は庭に匂いすみれを植え、二人で秘儀のように花壇を作ったりしている。
逆行して、作品のモデル、起源まで来てしまった。
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