書評
『突然訪れた天使の日: リチャード・ブローティガン詩集』(思潮社)
不思議なことに、会話をするわけでもないのに、私の家の猫はやさしい、ということがわかる。リチャード・ブローティガンという作家も、会ったこともないけれど、かなしいくらいやさしい人だとはっきりとわかる。そのやさしさは、本人をも傷つけただろうと思うほど。
私がこの作家に出会ったのはもの書きとしてデビューして一年後、作品は『リチャード・ブローティガン詩集 突然訪れた天使の日』だ。それまで詩は苦手だったのに、この作家の短い言葉はすーっと、空気みたいに自然に胸に入ってきて、見たことのない光景を見せ、その光景の清潔さ、静けさに私は見入った。静かなのに、音楽っぽくもある。
そして、不思議なやさしさがある。やさしいことは書かれていない。かなしいことも書かれていない。言葉は短く、唐突で、ちょっと皮肉っぽいユーモアがある。なのに、言葉と言葉の隙間(すきま)から、行と行のあいだから、やさしさとかなしみが漏れ出してくる。それが、当時私がすがるように聴いていたロック音楽と似ていた。私は音楽を聴くようにくりかえし詩を読んだ。
描き出されるすべての光景をゆっくり眺め、そこで出会う人を無自覚に愛し、漏れ出るやさしさとかなしみをたっぷり浴びたあとで、訳者あとがきを読むと、そこに思い描いたとおりの作者がいて、昔からよく知っている人だと錯覚するほど「そのまんま」で、そのことに震える。あとがきに引用されている、寺山修司の葬儀に参列したブローティガンの追悼の詩もすごい。やさしさとかなしみがスパークしていて、泣いてしまう。訳者の中上哲夫さん、引用してくださってありがとうございます、と心から思う。
ブローティガン詩集第二弾として、数カ月後、高橋源一郎訳の『ロンメル進軍』が出版された。ここにもやっぱり、すでになつかしく感じる「巨大な少年のような」作家がいて、清潔で静かで、ロック音楽によく似た世界を見せてくれる。やさしさとかなしみをたっぷり浴びることは、私にとってすでに癖になっている。それから私は日本語訳のある彼の著作を読みまくった。ずっと年上の、この世にもういない人とは思えなかった。
今でも私はこの作家の言葉を読み返す。毎回、はじめて読んだときと同じく新鮮な印象を持つ。本のなかで、詩は書かれ続けている。作家は生き続けている。やさしさとかなしみは涸(か)れることがない。
私がこの作家に出会ったのはもの書きとしてデビューして一年後、作品は『リチャード・ブローティガン詩集 突然訪れた天使の日』だ。それまで詩は苦手だったのに、この作家の短い言葉はすーっと、空気みたいに自然に胸に入ってきて、見たことのない光景を見せ、その光景の清潔さ、静けさに私は見入った。静かなのに、音楽っぽくもある。
そして、不思議なやさしさがある。やさしいことは書かれていない。かなしいことも書かれていない。言葉は短く、唐突で、ちょっと皮肉っぽいユーモアがある。なのに、言葉と言葉の隙間(すきま)から、行と行のあいだから、やさしさとかなしみが漏れ出してくる。それが、当時私がすがるように聴いていたロック音楽と似ていた。私は音楽を聴くようにくりかえし詩を読んだ。
描き出されるすべての光景をゆっくり眺め、そこで出会う人を無自覚に愛し、漏れ出るやさしさとかなしみをたっぷり浴びたあとで、訳者あとがきを読むと、そこに思い描いたとおりの作者がいて、昔からよく知っている人だと錯覚するほど「そのまんま」で、そのことに震える。あとがきに引用されている、寺山修司の葬儀に参列したブローティガンの追悼の詩もすごい。やさしさとかなしみがスパークしていて、泣いてしまう。訳者の中上哲夫さん、引用してくださってありがとうございます、と心から思う。
ブローティガン詩集第二弾として、数カ月後、高橋源一郎訳の『ロンメル進軍』が出版された。ここにもやっぱり、すでになつかしく感じる「巨大な少年のような」作家がいて、清潔で静かで、ロック音楽によく似た世界を見せてくれる。やさしさとかなしみをたっぷり浴びることは、私にとってすでに癖になっている。それから私は日本語訳のある彼の著作を読みまくった。ずっと年上の、この世にもういない人とは思えなかった。
今でも私はこの作家の言葉を読み返す。毎回、はじめて読んだときと同じく新鮮な印象を持つ。本のなかで、詩は書かれ続けている。作家は生き続けている。やさしさとかなしみは涸(か)れることがない。
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