書評
『ダダ・カンスケという詩人がいた: 評伝陀田勘助』(共和国)
彼が生きた時代をたどる旅へ
ひとりの人生を細かく追うことによって、その人が生きた時代を追体験できる。本書を読んでぼくは1920年代の日本に放り込まれたような気持ちになった。そして、大地震や戦争、国家権力の暴走など、現代と重なることが多いのに慄然とする。「陀田勘助(だだかんすけ)」というのはペンネームで、本名は山本忠平。ダダカンとも呼ばれる。ダダカンのダダは、ダダイズムのダダ。既存のあらゆる価値観を否定する芸術運動だ。ダダカンは1902年に生まれ、29歳で死んだ。ダダイスト詩人として出発したが、アナキストになり、さらには共産主義者に転じて獄死した。
インターネット上の図書館「青空文庫」には8篇の詩が上げられている(本稿執筆時点)。ネットに接続できる環境があれば、いつでも誰でも無料で読める。
本書は1枚の絵についてから始まる。望月晴朗の『同志山忠の思い出』という絵だ。この絵を紹介した新聞記事のずさんさに著者はあきれ、憤る。「この絵にこめられた無限の哀惜を、誰か読み解く人はいないのか」と。かくして著者と読者は、「同志山忠」こと山本忠平=ダダカンの短い人生と彼が生きた時代をたどる旅に出るのである。
ダダカンは栃木県で生まれるが、一家は彼が満7歳になる直前に東京の下町、本所に移る。そして洋服の仕立屋を始める。「毎日 ぼくはことことと/ミシンを踏んでいるのだ」という23歳のときの詩が引用されている。ミシンを踏むダダイスト詩人、というと微笑ましいが、現実は厳しかった。労働者はこき使われ、貧しい者は底辺であえぐ。一家が住んだのは細井和喜蔵のルポルタージュ『女工哀史』の舞台となった街でもある。やがてダダカンは労働運動の活動家になっていく。
もっとも、ダダカンの詩はダダっぽくない。たとえばフーゴ・バルの、無意味な音を羅列したアバンギャルドな詩に比べると「ふつう」だ。ダダイズムに共鳴、実践したというよりも、勢いで名前を拝借しちゃったという感じなのかもしれない。でも、この勢いがダダカンの短い生涯を貫く。
ダダカン21歳のときに関東大震災が起きる。建物の倒壊や火事で大勢の人が犠牲になっただけではない。大杉栄と伊藤野枝と甥の宗一少年が殺され、たくさんの朝鮮人が殺され、そして労働運動の活動家も日本人によって虐殺された。震災と復興をきっかけに、世の中はきな臭くなっていく。
その後の歴史を知っているぼくらは、日本が破滅に向かっていったことも知っている。だがその時代の只中にいたダダカンはどう感じていただろう。少しずつ自由が奪われ、仲間のなかでも対立や分裂が起きる。ダダカンは怖かっただろうか、苦しかっただろうか、それとも無我夢中で何かを感じる余裕などなかっただろうか。
皮肉にもダダカンが再び詩作の時間を持てたのは、治安維持法違反で豊多摩刑務所に収監された後だった。ダダカンは獄外の友人たちへの手紙というかたちで詩を書いた。そのうちの検閲で消されなかった言葉だけが残った。1931年の8月、ダダカンは死んだ。当局の主張は自殺。だがそんなことを信じる人はいない。翌月、満州事変が始まり、日本は泥沼の15年戦争に突入していく。
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