書評
『離れ部屋』(集英社)
申京淑(シン・ギョンスク)の小説が、ようやく日本でも刊行された。「韓国の吉本ばなな」と呼ばれたこともあるこの小説家は、彼女抜きでは韓国の今の文学はありえないほど重要なベストセラー作家である。長編『離れ部屋』(集英社)はその代表作だ。
作者に限りなく近い語り手は、長年目を背けてきた自分のハイティーン時代のトラウマを、ついに書き始める。「私」は十六歳でソウルに上京し、昼は工員として働き、夜は定時制高校へ通う。兄や従姉と暮らすうらぶれた下宿を語り手は「離れ部屋」と呼ぶのだが、そこで知り合った親友の悲劇に、十九歳の彼女は痛ましい形で巻き込まれる。
小説は、一九七〇年代末から八〇年代初頭にかけての苦難の日々が断片化され、それを書こうと悶える三十二歳現在の作家の日々と、渾然一体となって綴られていく。書き手はそれを、事実とフィクションの中間だ、という。なぜなら、いつまでもなまなましい傷であるがゆえに見ないでいた記憶を、正確に再現することなど不可能だからだ。少しでもその感触を偽らず損ねず再現するためには、それを書くことの欺瞞を意識したうえで、最もリアルな言葉が訪れる瞬間を待って記述するほかない。だから、起承転結のあるような物語に押し込めることなどできない。
光州事件を始め、韓国社会にトラウマを残した事件もこの小説の背景をなすが、語り手は何とか個人の言葉でそこにアクセスしようと努める。個人のトラウマと社会の構造が、そこでかすかに結びつこうとする。
癒えない傷に私的な言葉で触れようとする意思は、鹿島田真希の三島賞受賞作『六〇〇〇度の愛』(新潮社)にも共通する。無名の女が失踪するように長崎へと旅立ち、原爆の禍根を体現しているような混血の青年と情事を交わすという物語が、彼女の兄をめぐるトラウマと同時に語られていく。
しかし、ここでの長崎は、兄への愛憎という個人的な感情を仮託する対象にすぎない。そのことは、原爆投下という出来事に触れられない私たちの現状を、見事に描き出していよう。
作者に限りなく近い語り手は、長年目を背けてきた自分のハイティーン時代のトラウマを、ついに書き始める。「私」は十六歳でソウルに上京し、昼は工員として働き、夜は定時制高校へ通う。兄や従姉と暮らすうらぶれた下宿を語り手は「離れ部屋」と呼ぶのだが、そこで知り合った親友の悲劇に、十九歳の彼女は痛ましい形で巻き込まれる。
小説は、一九七〇年代末から八〇年代初頭にかけての苦難の日々が断片化され、それを書こうと悶える三十二歳現在の作家の日々と、渾然一体となって綴られていく。書き手はそれを、事実とフィクションの中間だ、という。なぜなら、いつまでもなまなましい傷であるがゆえに見ないでいた記憶を、正確に再現することなど不可能だからだ。少しでもその感触を偽らず損ねず再現するためには、それを書くことの欺瞞を意識したうえで、最もリアルな言葉が訪れる瞬間を待って記述するほかない。だから、起承転結のあるような物語に押し込めることなどできない。
光州事件を始め、韓国社会にトラウマを残した事件もこの小説の背景をなすが、語り手は何とか個人の言葉でそこにアクセスしようと努める。個人のトラウマと社会の構造が、そこでかすかに結びつこうとする。
癒えない傷に私的な言葉で触れようとする意思は、鹿島田真希の三島賞受賞作『六〇〇〇度の愛』(新潮社)にも共通する。無名の女が失踪するように長崎へと旅立ち、原爆の禍根を体現しているような混血の青年と情事を交わすという物語が、彼女の兄をめぐるトラウマと同時に語られていく。
しかし、ここでの長崎は、兄への愛憎という個人的な感情を仮託する対象にすぎない。そのことは、原爆投下という出来事に触れられない私たちの現状を、見事に描き出していよう。
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