書評
『タッソ 解放されたエルサレム』(名古屋大学出版会)
イタリア・ルネサンス名作 全訳
イタリア文芸のルネサンス期といえば、14世紀のダンテ『神曲』とボッカッチオ『デカメロン』が名高いが、それに劣らず西洋では16世紀のタッソ『解放されたエルサレム』は衆知の名作だという。このほど全訳が出たので紹介しておこう。なにしろ11世紀末の第一次十字軍が舞台であり、われわれ日本人にはなじみが薄いが、西洋ではキリスト教世界の輝かしい栄光として語られてきた。全20歌すべてが日本語で読めることで、西洋人が憧れ、感動し、数多くの音楽・美術・演劇・バレエなどを後世に生んだ物語に触れることができるのだ。
武将ゴッフレードは神の意志でキリスト教軍の司令官となり、エルサレムに到着する。イスラム兵士を引き連れた女戦士クロリンダはキリスト教軍の勇士タンクレーディと決闘しそうになるが、この敵将に一目ぼれしていた勇士は戦いを放棄し、恋心を打ち明ける。
魔術の心得のある美女アルミーダはキリスト教軍に入りこみ兵士たちを誘惑し、軍事力は乱れる。若武者リナルドは仲間との諍(いさか)いから戦線を離脱し、行方不明になる。タンクレーディも奇怪な罠(わな)に囚(とら)われ、キリスト教軍内部は混乱する。凶暴な巨漢アルガンテはクロリンダとともにキリスト教軍を苦戦に追いこむ。
キリスト教軍の全兵士がエルサレムの城壁を攻めるが、イスラム軍も反撃し、放火する。クロリンダを追ってきたタンクレーディは彼女と知らず闇の中で戦い、図らずも殺してしまう。彼の苦悩は計り知れなかった。
リナルドはアルミーダの園で愛の虜(とりこ)になっていたが、自分の失意に気づき、そこを去る。そこでリナルドへの復讐(ふくしゅう)が始まる。リナルドはキリスト教軍に復帰し、両軍の戦闘は激しくなる。精神錯乱から立ち直ったタンクレーディは大胆不敵なアルガンテと最後の戦にいどみ、巨漢の敵を降したが、彼自身も気を失ってしまう。彼に恋心をいだく捕虜の女に介抱され救われる。
リナルドは自決しようとしていたアルミーダを見つけだし、彼女の怒りを宥(なだ)め、和解する。やがて、イスラム側の援軍が到着し、両軍は最後の合戦に挑む。戦局は激しさを加えるが、ゴッフレードの軍勢が勝利をおさめる。
もちろん登場人物は主役級だけにとどまらずおびただしく、大半は騎士たちである。十字軍史書に記された世俗的な史実が中核をなしているが、空想的な色彩が目立たないほどに神々しく荘重な雰囲気の詩風がただよっている。
叙事詩でありながら叙情的な哀調あふれる心象風景が潜んでおり、なんとも魅力的な情景や情緒が浮かび上がる。たとえば、愛するクロリンダはこの世を去る直前に改宗の洗礼を願いながら命を落とす。もともとキリスト教徒の母に育てられたクロリンダにすればせめてもの哀願であった。その亡骸(なきがら)を前にしたタンクレーディの嘆きには悲痛さがにじむ。また、怒りを失したアルミーダが恋するリナルドの抱擁に甘んじる場面、心底泣ける。
この叙事詩にはどこか心の弱さをもつ「愛すべき人間」が描かれており、その哀愁が読者・観衆の共感をよびおこす。苛酷な歴史と華麗な幻想の織りなす愛と武勇の物語が目の前に広がり、全訳を手にとれば、その真髄が味わい深くなり、まことに喜ばしい。
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