前書き
『本能の人類史: 順応主義、宗教、部族主義』(草思社)
人類には、儀式や、宗教、部族主義を生み出す「本能」がある。この驚くべき事実を、長年のフィールドワークと、考古学で蓄積された知見に「ビッグデータ」というサイエンスの手法を融合させることで明らかにするのが、『本能の人類史』です。本書の「序」から、一部を抜粋・編集してお届けします。
私は太平洋に浮かぶ熱帯の島にいた。そこでこれから2年間過ごすことになっていた。
フィールドワークを実施するのはこれが初めてで、人々が墓地の礼拝堂で先祖に供物を捧げるところを追い回していた。はるか彼方のイングランドでケンブリッジ大学の博士課程に在籍していた私は、パプアニューギニアでもとりわけ調査が遅れていた土着文化の1つに2年間どっぷり浸かるためにやって来たのだった。そして、熱帯雨林の奥深くで暮らすこの部族は、まだ言語が書き留められたことはなく、村には電気も水道もなく、この地域の外では、彼らについて聞いたことのある人はほとんどいなかった。私はせっせと出掛けては、日々の営みに加わり、さまざまな活動に取り組む人々に話を聞き、何から何までノートに書き留めた。
その礼拝堂自体は、見た目は村の他のどの家とも変わらず、斧やブッシュナイフ(大型の狩猟刀)を使って周囲の森から取ってきた材料でできており、屋根は草葺きだったが、なんとも独特の宗教的機能を果たしていた。私は熱心で真面目な学生だったので、先祖に食べ物を与えるというこの発想を、ありとあらゆる角度から調べなければ、と感じていた。先祖たちは、竹を編んで作った礼拝堂の壁のような固形物をそのまま通り抜けることができるのですか? 彼らは供えられた食べ物を実際に吞み込むのですか? 先祖たちは供物を捧げられて喜ぶのですか?
問いを投げ掛けられるたびに、村人たちの顔にはしだいに深い困惑の表情が浮かんだ。だが、私がフィールドワークを始めてから数か月のうちに、人々はひっきりなしに素朴な疑問を浴びせられるのに慣れっこになった。彼らはおしなべて素晴らしく寛大で、見たところ果てしない辛抱強さを発揮し、私の誤解を正してくれた。とはいえ、先祖にかかわる疑問によって、私は不条理さの新たな高みに導かれた。もちろん先祖たちは壁を通り抜けられます。もちろん彼らは食べ物をそのまま吞み込んだりしません。そんな馬鹿げたことがありますか? もちろん供物を捧げられて喜んでいます。そうでなければ、わざわざ捧げたりするはずがないでしょう。
私は最後の答えにいちばん興味を引かれた。「そうか!」と私は思わず言った。「では、先祖たちは体もないのに、考えることはできるのですね」。村人たちは驚いて目をしばたたいた。もちろん先祖には心があります、と彼らは答えた。そして、礼儀正しいので口には出さなかったものの、胸の内ではこう思っていたかもしれない。しまった、この愚か者を、私たちの最も神聖な儀式に参加するように誘うのではなかった、と。
私は人類学者になるために指導を受けているときに、自分が知っていると思っていることをすべて脇に置き、自分の文化的背景から引き出された先入観や思い込み(「自民族中心主義」という罪)を抜きにして、可能なかぎり心を開いて現地での観察のプロセスに臨むことを奨励された。だが現実には、私は先祖たちについての疑問を投げ掛けている段階ですでに、どんな答えが返ってくるのかわかっていた。なぜかと言えば、村人たちは正しかったからだ。彼らがそう答えるのは当然だった。それどころか、どこの誰にとっても、それは当然の答えだっただろう。地球上の事実上どの人間社会でも、死者についてそれと同じ問いを発したなら、人々はおおむね同じことを即答すると思っていい。霊魂は肉体を持たないものの、それでも心はあって、感情を表したり、物事を思い出したり、私たちの言うことを理解したりできるという考え方には、誰もが馴な染じみがある。私たちの心と体は分離可能で、霊魂は私たちの死後も生き続けるという考え方も、それに劣らず一般的だ。イングランドの田舎の邸宅に出没するという幽霊のことを思うといい。あるいは、アフリカ系ブラジル人の憑依(ひょうい)カルトに出てくる霊や、中国の祖先崇拝のことを考えるといい。
このような考え方が普遍的なのは、それが人間の本性に根差しており、新しい世代が登場するたびに再浮上するからだ。自然に生まれるこうした考え方は、私たちホモ・サピエンスという種の際立った特徴の1つだ。チンパンジーとボノボとゴリラの観察可能な行動から判断すると、私たちに最も近い霊長類の動物たちは、死者の霊が食べ物を与えられることや宥なだめてもらうことを要求したり、助けを乞われたりする世界を出現させはしない。それなのに、人間社会にはそうした考え方が蔓延(まんえん)している。その具体的な特徴は文化的な集団ごとにいくらでも違う形で表現されるものの、同じ基本的構成要素が私たちの歴史を通して何度となく出現してきた。
言い換えると、こういうことだ。1つの世代から次の世代へと私たちが伝える物事、すなわち文化的伝統は、きわめて多様な形態を取ってきた。ところが、そのすべては結局、私たちが進化させた心理に根差しているのだ。私たちが文化的に進化させた伝統と生物学的に進化させた直観とのこの組み合わせは、無数の先祖世代から私たちに受け継がれ、種としての私たちの集団的遺産を構成している。その遺産と、それを浪費してしまう危険について書いたのが本書だ。そして本書は、将来その遺産をどのようにしてもっと賢く投資できるかについての著作でもある。
私たちの共通遺産の最も基本的な構成要素は、あらゆる人間社会で繰り返し観察されてきた3つの自然なバイアス(心理的傾向)だ。その第1は順応主義で、私たちは他者を熱心に真似(まね)、自分が育った集団の儀式やその他の習慣を身につける。たまたま周りの人がやっていれば、特別な建物の中で食べ物を供えることも、それに含まれる。第2が宗教性で、私たちは神や霊魂や先祖についての考え方を自然と獲得して広めがちだ。第3は部族主義で、私たちはしばしば集団に対して熱烈な忠誠心を抱き、豪勢なご馳走を振る舞うこともあれば、戦場で命を失う危険を冒すこともある。これら3つのバイアスは、これまで世界の歴史がなぜどのようにしてこのような形で展開してきたのかを理解するうえで、きわめて重要だ。
本書は、何千年もの文化の進化によって私たちの自然なバイアスがどのように利用され、拡張され、私たちが自然の限界を克服してしだいに大規模な社会で協力できるようになったかについて書いたものだ。文化の進化は、私たちの自然な傾向や影響の受けやすさを強め、拡張してきた。生物学的なものと文化的なものというこれら2つのプロセスがいっしょになって、現代世界を特徴づける豊かな人間の知識とテクノロジーの蓄積を生み出した。
[書き手]ハーヴィー・ホワイトハウス(Harvey Whitehouse)
オックスフォード大学社会人類学教授であり、社会結束研究センターの所長を務める。
フィールドワークと「愚かな問い」
私は人類学者なので、まるで変わり者か間抜け、あるいはその両方であるかのように人に見られるのには慣れている。私は太平洋に浮かぶ熱帯の島にいた。そこでこれから2年間過ごすことになっていた。
フィールドワークを実施するのはこれが初めてで、人々が墓地の礼拝堂で先祖に供物を捧げるところを追い回していた。はるか彼方のイングランドでケンブリッジ大学の博士課程に在籍していた私は、パプアニューギニアでもとりわけ調査が遅れていた土着文化の1つに2年間どっぷり浸かるためにやって来たのだった。そして、熱帯雨林の奥深くで暮らすこの部族は、まだ言語が書き留められたことはなく、村には電気も水道もなく、この地域の外では、彼らについて聞いたことのある人はほとんどいなかった。私はせっせと出掛けては、日々の営みに加わり、さまざまな活動に取り組む人々に話を聞き、何から何までノートに書き留めた。
その礼拝堂自体は、見た目は村の他のどの家とも変わらず、斧やブッシュナイフ(大型の狩猟刀)を使って周囲の森から取ってきた材料でできており、屋根は草葺きだったが、なんとも独特の宗教的機能を果たしていた。私は熱心で真面目な学生だったので、先祖に食べ物を与えるというこの発想を、ありとあらゆる角度から調べなければ、と感じていた。先祖たちは、竹を編んで作った礼拝堂の壁のような固形物をそのまま通り抜けることができるのですか? 彼らは供えられた食べ物を実際に吞み込むのですか? 先祖たちは供物を捧げられて喜ぶのですか?
問いを投げ掛けられるたびに、村人たちの顔にはしだいに深い困惑の表情が浮かんだ。だが、私がフィールドワークを始めてから数か月のうちに、人々はひっきりなしに素朴な疑問を浴びせられるのに慣れっこになった。彼らはおしなべて素晴らしく寛大で、見たところ果てしない辛抱強さを発揮し、私の誤解を正してくれた。とはいえ、先祖にかかわる疑問によって、私は不条理さの新たな高みに導かれた。もちろん先祖たちは壁を通り抜けられます。もちろん彼らは食べ物をそのまま吞み込んだりしません。そんな馬鹿げたことがありますか? もちろん供物を捧げられて喜んでいます。そうでなければ、わざわざ捧げたりするはずがないでしょう。
私は最後の答えにいちばん興味を引かれた。「そうか!」と私は思わず言った。「では、先祖たちは体もないのに、考えることはできるのですね」。村人たちは驚いて目をしばたたいた。もちろん先祖には心があります、と彼らは答えた。そして、礼儀正しいので口には出さなかったものの、胸の内ではこう思っていたかもしれない。しまった、この愚か者を、私たちの最も神聖な儀式に参加するように誘うのではなかった、と。
世界中に共通する「死者」への直観
私は人類学者になるために指導を受けているときに、自分が知っていると思っていることをすべて脇に置き、自分の文化的背景から引き出された先入観や思い込み(「自民族中心主義」という罪)を抜きにして、可能なかぎり心を開いて現地での観察のプロセスに臨むことを奨励された。だが現実には、私は先祖たちについての疑問を投げ掛けている段階ですでに、どんな答えが返ってくるのかわかっていた。なぜかと言えば、村人たちは正しかったからだ。彼らがそう答えるのは当然だった。それどころか、どこの誰にとっても、それは当然の答えだっただろう。地球上の事実上どの人間社会でも、死者についてそれと同じ問いを発したなら、人々はおおむね同じことを即答すると思っていい。霊魂は肉体を持たないものの、それでも心はあって、感情を表したり、物事を思い出したり、私たちの言うことを理解したりできるという考え方には、誰もが馴な染じみがある。私たちの心と体は分離可能で、霊魂は私たちの死後も生き続けるという考え方も、それに劣らず一般的だ。イングランドの田舎の邸宅に出没するという幽霊のことを思うといい。あるいは、アフリカ系ブラジル人の憑依(ひょうい)カルトに出てくる霊や、中国の祖先崇拝のことを考えるといい。
文化の違いを超えた普遍的な心
このような考え方が普遍的なのは、それが人間の本性に根差しており、新しい世代が登場するたびに再浮上するからだ。自然に生まれるこうした考え方は、私たちホモ・サピエンスという種の際立った特徴の1つだ。チンパンジーとボノボとゴリラの観察可能な行動から判断すると、私たちに最も近い霊長類の動物たちは、死者の霊が食べ物を与えられることや宥なだめてもらうことを要求したり、助けを乞われたりする世界を出現させはしない。それなのに、人間社会にはそうした考え方が蔓延(まんえん)している。その具体的な特徴は文化的な集団ごとにいくらでも違う形で表現されるものの、同じ基本的構成要素が私たちの歴史を通して何度となく出現してきた。言い換えると、こういうことだ。1つの世代から次の世代へと私たちが伝える物事、すなわち文化的伝統は、きわめて多様な形態を取ってきた。ところが、そのすべては結局、私たちが進化させた心理に根差しているのだ。私たちが文化的に進化させた伝統と生物学的に進化させた直観とのこの組み合わせは、無数の先祖世代から私たちに受け継がれ、種としての私たちの集団的遺産を構成している。その遺産と、それを浪費してしまう危険について書いたのが本書だ。そして本書は、将来その遺産をどのようにしてもっと賢く投資できるかについての著作でもある。
人間の本能と私たちの「不自然史」
私たちの共通遺産の最も基本的な構成要素は、あらゆる人間社会で繰り返し観察されてきた3つの自然なバイアス(心理的傾向)だ。その第1は順応主義で、私たちは他者を熱心に真似(まね)、自分が育った集団の儀式やその他の習慣を身につける。たまたま周りの人がやっていれば、特別な建物の中で食べ物を供えることも、それに含まれる。第2が宗教性で、私たちは神や霊魂や先祖についての考え方を自然と獲得して広めがちだ。第3は部族主義で、私たちはしばしば集団に対して熱烈な忠誠心を抱き、豪勢なご馳走を振る舞うこともあれば、戦場で命を失う危険を冒すこともある。これら3つのバイアスは、これまで世界の歴史がなぜどのようにしてこのような形で展開してきたのかを理解するうえで、きわめて重要だ。本書は、何千年もの文化の進化によって私たちの自然なバイアスがどのように利用され、拡張され、私たちが自然の限界を克服してしだいに大規模な社会で協力できるようになったかについて書いたものだ。文化の進化は、私たちの自然な傾向や影響の受けやすさを強め、拡張してきた。生物学的なものと文化的なものというこれら2つのプロセスがいっしょになって、現代世界を特徴づける豊かな人間の知識とテクノロジーの蓄積を生み出した。
[書き手]ハーヴィー・ホワイトハウス(Harvey Whitehouse)
オックスフォード大学社会人類学教授であり、社会結束研究センターの所長を務める。
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