書評
『琉球外交史 唐・大和の御取合』(講談社)
「両属」の安定からたどった運命
江戸末期のガイド本『琉球年代記』の挿絵のなかに、丁髷(ちょんまげ)頭の日本人とともに、丸い髷に長い簪(かんざし)を挿している琉球人がいる。ここには、額から頭頂までの髪を剃(そ)れば丁髷になることが隠されており、明・清の中国人の目をくらますというおかしさがあったらしい。大陸との間には東シナ海が拡(ひろ)がり、日本本土とは島々を頼れても黒潮を横切らねばならなかった。温暖で食料も確保しやすかったから、沖縄諸島が農耕社会に転じたのは、11世紀後半のわが国で院政が始まったころからだった。
このころから、陶器や石鍋などの容器が大量に出まわり、交流が盛んになり、権力や財力の格差による社会の階層化が進む。13世紀後半には按司(あじ)とよばれる地域首長が抬頭(たいとう)し、小高い丘の上にグスク(城)が造営されるようになったという。東アジアの覇者・明が海禁で取締り、華人海商が退きがちになると、琉球は朝貢活動に勤(いそ)しみ、明の国際秩序の下に東シナ海域・南シナ海域を結ぶ中継貿易に手を染めだす。
15世紀後半には、大国明の庇護(ひご)のもとに小国ながら中継貿易が盛んになり、16世紀初頭には琉球は周辺諸島を武力で制圧する勢いにあった。その勢威たるや17世紀に日明貿易の仲介を迫る徳川政権の要請を拒絶するほどであった。
やがて重税や飢饉(ききん)などの混乱のなかで、満州の清が攻勢を増し、中華の支配者にのし上がり、漢人にも辮髪(べんぱつ)・清服などへの服従を強要した。儒学を尊ぶ康熙帝の治世に、忠実な朝貢国として期待された琉球は孔子廟(びょう)のある官立学校や漢文正史にとり組む。
だが、すでに日本経由の儒学が盛んであり、薩摩の島津氏の侵攻後は、琉球は日本の支配に適応する必要もあったらしい。とはいえ、琉球は日本との交わりについて口にしたがらず、隠蔽(いんぺい)しつづける。もっとも、清にとっては朝貢が実演されるという体裁さえあれば朝貢国の内実(内政・外政)は問わないのが原則だったという。
徳川政権は併合を目的としなかったために、琉球王国は清の朝貢国のまま日本の支配下に置かれる事態に甘んじなければならなかった。その背景には、徳川政権と清が互いの摩擦・衝突を回避しようとする姿勢で一致していたことがある。とりわけ、清の大国ぶりに牽制(けんせい)された徳川政権が、琉日関係よりも琉清関係を優先する意向をいだいていたことが注目される。清の脅威が、「二君に仕える」という矛盾をはらみながら、二百年にわたって構造的な安定をもたらしたことになったのだ。
清にも日本にも完全には包摂されない狭間(はざま)に立ちながら、琉球王国は外交上の自己裁量権をもっており、日本との関係の隠蔽策も黙認されていた。「両属」しかありえなかった時代があり、そこに髪を剃れば丁髷の武士になるという冒頭の挿絵の皮肉も生きてくる。だが、やがて東アジアの外からこの裁量権は王国もろとも廃絶される。19世紀半ばのペリー来航とともに東アジアの暗黙の国際秩序は欧米の国際秩序にはそぐわないものになり、根強い琉球の抵抗を斥(しりぞ)け、「藩を廃して沖縄県を置く」という処分が申し渡された。
狭間に置かれた沖縄のたどった紆余(うよ)曲折の試行錯誤の運命は、けっして他人事であってはならないことを実感させてくれる。
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