書評
『今夜も映画で眠れない ポーリン・ケイル集』(東京書籍)
ポーリン・ケイルの書評を読みたくないかい
仕事に区切りがついたので、ワープロをオフにして缶ビールを飲んでいた。それでもって、やっぱり手元に本がないと寂しいので買ったまま積みっぱなしになっていたポーリン・ケイルの映画コラム集『今夜も映画で眠れない』(柴田京子訳、東京書籍)をぱらぱらとめくっていたらフィリップ・カウフマン監督の映画「存在の耐えられない軽さ」について書かれているところにぶつかった。原作はミラン・クンデラで、ポーリン・ケイル女史はもちろん原作についても触れていて、そこのところを読んでいるとこんな箇所があった。小説の魅力(と限界)は、そのヨーロッパ大陸風ダンディズムにある。クンデラは、すぐれた作家として必要な以上に洗練されていた優雅にヨーロッパ的だった。かれは自分のテーマ、モチーフ、逆説を意識しすぎていた。彼は遊び心を擁護する理性的な代弁者だった。そこに問題がある文学的手法としての遊び心ということだ。
そうなんだよ、ケイルさん。しかし、驚いたなあ。クンデラの作品の書評はずいぶん読んだけど、これぐらい簡潔で正確に書かれたものは読んだ覚えがなかったよ。ぼくは慌てて、他の映画評を読んでみた。もちろん、原作つきのやつばかりを選んでだ。
この本のすばらしいところは、読者が幻想のパワーを感じられることだ。……。小説の大半は同房者ふたりの会話の形で書かれ、そうした著者の声はきこえず、男たちのいっていることの背後にある動機はわかりにくい。しかし、底に秘められたもの――ふたりの男がたがいに利用し合っているという破滅の暗示――はあり、読者はこれを感知するかもしれないし、しないかもしれない。(プイグの小説『蜘蛛女のキス』について)
こうしてつむぎ出された物語同様、彼女の「七つのゴシック物語」は、気晴らしの一形態である。あたかも、夜を徹しての不節制という熱に浮かされた雰囲気の中で考え出されたもののように読める。(アイザック・ディネーセンの小説について)
本――あるいはその最もすぐれた部分、ざっと最初の三分の一。(アリス・ウォーカーの『カラーパープル』について)
若きフォースターは、ヒューマニズムのユートピア的形態に浸っていたものと見える。性愛を聖なる永遠のものと見なし、結婚生活における男女平等を、ロマンティックで神秘主義的な視点でとらえていた。この物語だけいただいて、基本にある哲学的性格(と意味)を振り払ってしまえば、映画作家たちの手に残るのは、ミュージカルコメディとして通用するような軽い本である。(E・M・フォースターの『眺めのいい部屋』について)
とまあ、次から次へと原作への言及があるのだが、原作を知っている者にとってはどれも「その通り!」としか言いようがないような書き方なのである。ほんと、すごいわ。
世の中には、読み巧者というような人がいて、そういう人の書評を読むのは楽しいのだが、ポーリン・ケイルを読んでいると、ただの読み巧者ではないことがわかる。それは、もっとも重要と思われる箇所をさっと掴み出して、短く明瞭に書ける能力の持ち主だということだ。根っからの本好きは、どうしても長く書いてしまう。だから、ポーリン・ケイルの書き方は映画的、もしくは映画批評的といわなきゃいけないのだろう。ぼくは彼女の映画評を読んでいて、書評も書いてくれないかなあと思ったんだが。
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