書評
『ナンシー関 原寸大! 生ハンコ集』(ワニブックス)
底なしの好奇心が掘り当てた「真実」
ナンシー関さんが遺(のこ)した消しゴムの存在を、時々思うことがあった。彫りに彫った数多(あまた)のハンコ作品は、今どうしているのだろう。きっと、どなたかの手元に大切に保管されているのだろう、などと。部外者の私がそんなふうに思うのは、かつてナンシーさんに生ハンコを見せてもらった日の記憶が鮮烈だったからだ。あれは九十年代の終わりごろで、広告物の製作を手伝ったときのこと。ナンシーさんがハンコを彫ってくださることになり、私鉄沿線のご自宅へ打ち合わせをしに出向いた。アートディレクターと私が伺うと、リビングルームに置いてある大小のテレビが、まず目に飛び込んできた。あの空前絶後の文章はこれらのテレビを観ながら生まれるのだと思うと、畏怖(いふ)の気持ちを抱いたのを覚えている。
仕事の話にひと区切りがつくと、ペットボトルの烏竜(ウーロン)茶をコップに注いでくれながら、ナンシーさんが言った。
「消しゴム、見ます?」
わあ見たい見たい! 私たち二人が飛び上がって興奮するのを見て、ナンシーさんは目尻を下げながら消しゴムの山をごっそり運んできた。彫ったハンコを手にして、この面をこんなふうにして、と彫り方を説明してくださる。仕事の話をしていたときとは打って変わって、消しゴムを持つ心底楽しそうな表情が目に焼きついた。その横顔は少女のようだった。
本書は盟友、町山広美さんの監修のもと、「原寸大」と銘打ち、膨大な数の生ハンコを公開する画期的な企画だ。生ハンコ、つまり、彫った消しゴムの面そのもの。インクをつけ、押した作品も併せて掲載し、凸と凹の匠(たくみ)をとっくりと鑑賞させてくれる。
圧巻のひと言、ご存じの名作が目白押し。“十年後に選挙に出ている”とコラムで看破した「国民的ヤワラさん」をはじめ、傑作を凸凹隣り合わせに玩味する、とんでもない贅沢(ぜいたく)。プロレスラーや相撲取りなど格闘技の面々、何度も彫った桂歌丸、川島なお美たちへのほの暗い偏愛ぶりにも、ぞくりとする。とことん執心したジャイアント馬場の生ハンコの彫り跡には、独自の様式美を感じて、唸(うな)ってしまった。
「消しゴムは小手先で彫るもの」と豪語しているけれど、いやとんでもない。生ハンコの面いっぱいに横溢(おういつ)しているのは、愛憎が拮抗(きつこう)する底なしの好奇心だ。カッターを握って彫り進むとき、ナンシーさんと相手との境界線は、濃く、薄く、おぼろになって消失し、本人の「真実」が現出する。その、証文としての生ハンコ。中途半端な好奇心しか揺さぶってこない相手の場合は、ごく薄味の彫り跡だというところが、ぞっとするほど恐ろしいのだが。
生ハンコを目撃する。それは、ナンシーさんが眼鏡の奥から注いだ視線を共有する密(ひそ)やかな行為だ。こんな眼福に恵まれるとは思いもかけなかった。手を合わせて拝んでしまいそうだ。
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