解説
『江戸っ子だってねえ―浪曲師広沢虎造一代』(新潮社)
さんざん世話になった人が旅先で苦労しているのを助けようともせず、逆に、自らが警察勤務である立場を利用して、「御用と召し捕って牢内につないで苦しめてやる」と嘯く保下田(ほげた)の久六という極悪人、と言うと右(事務局注:上)のごとき、「はは、君は単純だな。はは、とんだ浪花節だ」なんつって人を見下す、高級背広を着て乙に澄ましているような奴輩は、「そんなものは類型的な悪人であって、そういうのを stereotype とこう言うのだよ。君らみたいな土民は知らんだろうけど」と嘯くだろうが、なめとったらあかんど、こら。聴く前にそんなことを言っていても、一度、虎造節を聴けば、その同じ人が、「保下田の久六というのは実に怪(け)しからんやつでもう腹が立って腹が立って」と言って久六を甚だしく憎むようになるに決まっているのである。
といってでも、これは虎造が語るから久六の悪、清水一家の善がきわだつのであって、これが巷(ちまた)に溢れる凡百の勧善懲悪のストーリーであったならば、かくいう自分とて右の乙澄野郎と同様の感想しか抱かないであろうことは容易に推測でき、つまり、この単純な物語に心が動く、ソウルがムーブするのは、これが浪花節であり、そして廣澤虎造の、本書『江戸っ子だってねえ―浪曲師廣澤虎造一代―』第五章で玉川勝太郎が言っている、「一世一代」の次郎長伝であるからで、つまりそれくらいに廣澤虎造の浪花節は素晴らしいのである。
というと自分が嘘を言っていると思う人があるかも知らんので言っておくが、これは本当の話で、それが証拠に自分がそうだ。自分が浪花節を聴くようになったのは三十近くなってからで、それまでは右(ALL REVIEWS事務局注:上)に申しあげた、浪花節イーコール古臭いもの、と普通に思っていた。それがどうでしょう。偶然、耳にした虎造の次郎長伝にその場で魅了され、聴くたびに、実にいいっ、と思うようになり、若い時分からパンクの歌手をしていた関係上、相当にひねくれているはずであるのにもかかわらず、ときに感激・感動のあまり落涙することもあるくらいなのである。
というと、お前は偏屈の因果者だからだろう、と思う人があるかも知らんのでさらに言っておくが、それは別に僕だけでなく、僕は試しにまったく浪花節を聴いたことのない知り人に『秋葉の火祭り』を聴かせたのだけれども、知り人は自分と同様に感激・感動、次の段を早く聴かせろ、とせっつかれたのである。
というと、お前のような奴の知り人だからきっとお前同様偏屈なのだろう、と思う人があるかも知らぬが、この忙しいのにそこまで疑り深い奴の相手はしていられないから先へ進むが、つまりそれくらいに廣澤虎造の芸は凄いのである。
本書はその凄い廣澤虎造の一代記で、そんな凄い芸を一代の工夫で拵えあげた人の一代記が面白くないわけがなく、いたるところに横溢する浪花節的ムード、すなわち章の冒頭の外題付けや引用される節やタンカは当然のこととして、地の文のイキと間がときおり虎造節になっている点など、思わず、「そうそうこれこれ。くううっ」と唸りながら一気に最後まで読んでしまうのである。
しかし冒頭にも申しあげたように世間には浪花節アレルギーのようなものがあって、鼈甲斎虎丸(べっこうさいとらまる)、春日井梅鶯(かすがいばいおう)、壺坂霊験記(つぼさかれいげんき)、天保水滸伝(てんぽうすいこでん)といったむやみに画数の多い漢字表記を見ただけで、「こりゃ、こりゃだみだ」と敬遠する向きも多く、そんなみんながみんな面白がるわけでもなかろう、てなものであるが心配は無用で、例えば浪花節というものがどういう芸なのか、なんてことについては、まだ素人(しろうと)で浪曲好きの少年である虎造と、その兄貴分であるところの白井善次郎との会話・掛合を楽しんで読むうちに自然に頭に入ってくるし、現代を生きる者にとってよくわからない当時の時代・風俗についても、銀ブラをする虎造、円タクに乗る虎造、地下鉄に乗る虎造、国民酒場に入る虎造を読むことによって読者もまた当時の時代・風俗にごく自然に没入しうるのである。
そしてなんとか次郎長伝を完成させたい虎造が、講釈師・神田ろ山と出逢うくだりは実に小説的であり、また、噺家(はなしか)・司馬龍生(しばりゅうしょう)三人でアイデアを出し合い、見るもの聞くものすべてを芸に結びつけ、それが、次郎長伝、とりわけ『石松三十石船』に結実、「馬鹿は死ななきゃなおらない」という節が誕生するさまは真に迫り、また感動的である。
読者は、本書を読むと虎造節が聴きたくなり、虎造節を聴くと、また本書を読み返したくなるであろう。
都市部の流入人口が増加したこと。ラジオ放送が始まったこと。劇場でマイクロホンが使用されるようになったこと他、廣澤虎造が時代とシンクロしつつその芸を完成させていくさまを活写した本書は、廣澤虎造の芸そのままに、明るく豪快で、かつ情趣・情感に溢れている。春うらら、って感じで。
【この解説が収録されている書籍】
といってでも、これは虎造が語るから久六の悪、清水一家の善がきわだつのであって、これが巷(ちまた)に溢れる凡百の勧善懲悪のストーリーであったならば、かくいう自分とて右の乙澄野郎と同様の感想しか抱かないであろうことは容易に推測でき、つまり、この単純な物語に心が動く、ソウルがムーブするのは、これが浪花節であり、そして廣澤虎造の、本書『江戸っ子だってねえ―浪曲師廣澤虎造一代―』第五章で玉川勝太郎が言っている、「一世一代」の次郎長伝であるからで、つまりそれくらいに廣澤虎造の浪花節は素晴らしいのである。
というと自分が嘘を言っていると思う人があるかも知らんので言っておくが、これは本当の話で、それが証拠に自分がそうだ。自分が浪花節を聴くようになったのは三十近くなってからで、それまでは右(ALL REVIEWS事務局注:上)に申しあげた、浪花節イーコール古臭いもの、と普通に思っていた。それがどうでしょう。偶然、耳にした虎造の次郎長伝にその場で魅了され、聴くたびに、実にいいっ、と思うようになり、若い時分からパンクの歌手をしていた関係上、相当にひねくれているはずであるのにもかかわらず、ときに感激・感動のあまり落涙することもあるくらいなのである。
というと、お前は偏屈の因果者だからだろう、と思う人があるかも知らんのでさらに言っておくが、それは別に僕だけでなく、僕は試しにまったく浪花節を聴いたことのない知り人に『秋葉の火祭り』を聴かせたのだけれども、知り人は自分と同様に感激・感動、次の段を早く聴かせろ、とせっつかれたのである。
というと、お前のような奴の知り人だからきっとお前同様偏屈なのだろう、と思う人があるかも知らぬが、この忙しいのにそこまで疑り深い奴の相手はしていられないから先へ進むが、つまりそれくらいに廣澤虎造の芸は凄いのである。
本書はその凄い廣澤虎造の一代記で、そんな凄い芸を一代の工夫で拵えあげた人の一代記が面白くないわけがなく、いたるところに横溢する浪花節的ムード、すなわち章の冒頭の外題付けや引用される節やタンカは当然のこととして、地の文のイキと間がときおり虎造節になっている点など、思わず、「そうそうこれこれ。くううっ」と唸りながら一気に最後まで読んでしまうのである。
しかし冒頭にも申しあげたように世間には浪花節アレルギーのようなものがあって、鼈甲斎虎丸(べっこうさいとらまる)、春日井梅鶯(かすがいばいおう)、壺坂霊験記(つぼさかれいげんき)、天保水滸伝(てんぽうすいこでん)といったむやみに画数の多い漢字表記を見ただけで、「こりゃ、こりゃだみだ」と敬遠する向きも多く、そんなみんながみんな面白がるわけでもなかろう、てなものであるが心配は無用で、例えば浪花節というものがどういう芸なのか、なんてことについては、まだ素人(しろうと)で浪曲好きの少年である虎造と、その兄貴分であるところの白井善次郎との会話・掛合を楽しんで読むうちに自然に頭に入ってくるし、現代を生きる者にとってよくわからない当時の時代・風俗についても、銀ブラをする虎造、円タクに乗る虎造、地下鉄に乗る虎造、国民酒場に入る虎造を読むことによって読者もまた当時の時代・風俗にごく自然に没入しうるのである。
そしてなんとか次郎長伝を完成させたい虎造が、講釈師・神田ろ山と出逢うくだりは実に小説的であり、また、噺家(はなしか)・司馬龍生(しばりゅうしょう)三人でアイデアを出し合い、見るもの聞くものすべてを芸に結びつけ、それが、次郎長伝、とりわけ『石松三十石船』に結実、「馬鹿は死ななきゃなおらない」という節が誕生するさまは真に迫り、また感動的である。
読者は、本書を読むと虎造節が聴きたくなり、虎造節を聴くと、また本書を読み返したくなるであろう。
都市部の流入人口が増加したこと。ラジオ放送が始まったこと。劇場でマイクロホンが使用されるようになったこと他、廣澤虎造が時代とシンクロしつつその芸を完成させていくさまを活写した本書は、廣澤虎造の芸そのままに、明るく豪快で、かつ情趣・情感に溢れている。春うらら、って感じで。
【この解説が収録されている書籍】
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