書評
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』(文藝春秋)
日常から哲学へ続くなだらかな道
勉強のやり方・ハウツー本の体裁をとった、哲学書。とにかく文章がわかりやすい。《勉強とは、わざと「ノリが悪い」人になることである》(二〇頁(ページ))なんて書いてあるので、その先が読みたくなる。高校生なら十分読みこなせるだろう。とは言え、議論のなかみは本格的だ。著者は、フランス現代哲学が専門。ドゥルーズ&ガタリやラカンにこう書いてあります、ではなくて、それをフーコーや分析哲学にも絡めつつ、独創的な議論を展開する。その舞台が、「勉強」である。
勉強とはなにか。教室で一斉に同じことを習い、試験があるのは、勉強ではない。自分の興味で本を読んだり調べたり、勝手にあれこれ考えたりしていくのが、著者のいう勉強である。
人間は誰でも、とりあえずこの社会を生きている。言葉も話す。「環境のコード」が、この場を支配している。このコードは不確定で、掴(つか)みにくい。でもなるべくそれに合わせ、人びとは日常を生きている。
それでいいのか、立ち止まって考えよう。これまでのコードをはみ出すのが、勉強だ。
それには、特別な言葉づかいが必要である。ひとつは、アイロニー。「内定取れた!」とみんなが盛り上がっているとき、「就職ってそんなに大事?」みたいな発言をする。場は白けるが、一段深いレヴェルで議論の前提を考えられる。ただしアイロニー(批判)は、始めると際限がない。もうひとつは、ユーモア。「浮気なんて許せない」とみんなで怒っているとき「サル学ではね…」みたいに発言し話をあらぬ方向に脱線させる。ユーモアも、どこまでも拡散していく。それに歯止めをかけるのは、享楽化(自分なりのこだわり)だ、と著者は言う。
では実際、どのように勉強するのか。本書の提案はオーソドックスだ。第一に、問題を大きなスケールへ抽象化するため、中学高校で学んだ抽象概念を使おう。追究(アイロニー)と連想(ユーモア)の両方を用い、視野を広げていく。これが勉強だが、当然きりがない。
きりがないので、エイヤッと決断するのが、決断主義だ。なぜこう考えるのか。決断したから。でもその決断は中身がカラッポで、根拠がない。それより比較を続けよ、と著者は言う。そして、粘り強く比較を続けている他者を信頼せよ。そうした著者の本を、読むべきだと。
本書はさらに、実践的なアドヴァイスを続ける。自己理解のため「欲望年表」をつくれ。享楽的なこだわり(バカな自分)を知れ。読書ノートをとれ。著者の体験にもとづく知恵だ。
本書がすぐれているのは、人びとの日常から、ものを考える哲学の場所まで、無理なく進むなだらかな道を用意していること。ネットにあふれる情報の時代、どこから手をつけていいか困惑する人びとに、本書は役立つだろう。千葉雅也氏はフランス現代思想に軸足を置きつつ、言語哲学やウィトゲンシュタインを取り込み、あれもあり、これもありの相対主義を抜け出す道すじを切り開いていく。
「環境コード」が支配するノリの世界は、みんなに合わせないと浮き上がってしまう。だが合わせるだけでは、自分が何者かわからなくなる。そんな教室で漠然と思い悩む若いあなたの苦しさを、勉強で克服することができますよ。勉強して、ちょっとした言葉づかいのテクニックと、バカであることを恐れない勇気とを手にするだけで、まっとうな思索の場所まで歩んでいけますよ。それを試してみようかなあと思えるなら、『勉強の哲学』は成功である。
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