書評
『香水―ある人殺しの物語』(文藝春秋)
「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる! これは信じていいことなんだよ。何故つて、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことぢやないか」。引用するのが気恥しいぐらいに有名な梶井基次郎の『桜の樹の下には』のあまりにも有名な冒頭のこの一句は、信じられぬまでに美しいものを前にしたときに人間の感ずるある種の居心地の悪さ、そしてそこから生じるとてつもなく不吉な連想を散文詩人の直感で見事に表現しているが、ことは何も視覚にかぎったことではない。聴覚、そしてとりわけ最も本能的な感覚である嗅覚についてもまったく同じことが言える。もし、この世に文字通りの意味で人を法悦の境地に誘い、「愛」を感じさせる至高の「香り」が存在するとしたら、その「香り」には最も美しく馨(かぐわ)しい人間の、すなわち「成熟する直前の乙女」の屍の匂いがこめられているのではないか。
西ドイツの作家パトリック・ジュースキントのベスト・セラー小説『香水――ある人殺しの物語』の着想の核にあったのは、おそらくあまりにも快く嗅覚を刺激する、こうした香りに対する恍惚と不安であったにちがいない。物語の発端に選ばれているのは、十八世紀中葉のパリ。時代はバロックからロココへと変わり、視覚の面では、パリはヨーロッパ一の都として美しさを極めつつあった。だが嗅覚という点ではパリは墓地の死体、糞便、家畜の死骸などから発散される、諸々の悪臭に悩まされていた。こうしたパリでも、今日ピエール・レスコの噴水が置かれている広場にあった、イノサン墓地は、パリじゅうの貧者の遺体が共同の墓穴の中に雨ざらしで積み重ねられ、パリ以外の人間ならとうてい我慢できないような異臭をはなっていたが、『香水』の主人公ジャン=バチスト・グルヌイユは、この墓地の隣の、これまた大きな悪臭源であった魚市場の中で女魚屋(当時、魚屋はみんな女だった)の私生児として産み落とされる。母親は我が子をすぐさま魚と同じように包丁の一突きで処分しようとするが、グルヌイユは石川淳の『荒魂』の主人公さながらのたくましさで生き延びてしまう。そして棄児院を振り出しに、アンシャン・レジーム下の孤児たちがたどった過酷な境遇をくぐり抜けていくが、預けられた先々で無気味な子供として恐れられる。というのも、この子供は旺盛(おうせい)な生命力を示すばかりか、異常に鋭い嗅覚を持ち、しかも本人は、体臭というものをまったく持っていないのだ。『香水』は、この匂いのブラックホールのような男が「匂いは呼吸と切り離せない以上、匂いを制するものは世界を制する」という認識に基づいて、世界のすべてを「鼻」で識別し、みずから創り出した「愛の香水」で人間の心を支配しようとする物語と一応は要約できるだろう。
だが、もう一つの主役は悪臭と芳香が濃厚なアマルガムをなしていた当時の社会である。ジュースキントは、アンシャン・レジーム下のパリをよほど詳しく考証したらしく、当時パリでかぐことができたはずの匂いをすべてグルヌイユにかぎわけさせている。例えば皮なめし職人となったグルヌイユがさまざまな匂いの混じりあったパリの通りにたたずんで、太い匂いの束を鼻で細かい糸にときほぐしながら歓喜に震えるところは筆者の最も気にいっている場面で、いかなる着色銅版画を以(もっ)てしても、これほどいきいきと十八世紀のパリを蘇らすことはできないだろう。
やがて、ある祭の晩、グルヌイユはこの匂いの固まりの中に、どんな香水もつくりだしえないような芳香をかぎとる。それは十三、四の少女の匂いだった。グルヌイユはその匂いを存分に味わいたいがために少女を殺害する。ここからこの至高の「匂い」を創造しようとする鼻男の遍歴が始まる。グルヌイユは、まず、左前になったシャンジュ橋の香水屋に弟子いりしてたちまち頭角を現し、次々と新しい香水を調合して、主人に巨万の富を稼がせるが、やがて究極的な匂いの保存法を学ばんとして香水の町グラースに向かって出発する。これ以後、物語はオーベルニュ山脈での山ごもりから、グラースにおける少女連続殺人と絞首台での奇跡へ、さらには生誕の地に舞い戻ってのグルヌイユの「昇天」まで、十八世紀風のピカレスクを装いつつ、極めて倒錯した形でイエス・キリストの生涯をなぞっていく。もちろん、一切の人間的感情を欠いた怪物であるグルヌイユを、そのままイエスになぞらえるのは無理があろうが、どちらも人々の心を「愛」で満たす絶対的な力をつくりだした、という点では変わりがない。そして当人は「愛」とはまったく無縁な異邦人の孤独に耐えていたという点でも……。
筆者は先ごろ、この小説に着想を提供したと噂(うわさ)されるアラン・コルバンの『においの歴史――嗅覚と社会的想像力』(新評論。藤原書店より再刊)を山田登世子氏との共訳で訳出したが、その筆者が読んでも、ジュースキントは当時の資料を完全に自家薬籠中のものにし切っていささかも間然するところがない。なお、訳文はいたずらにおどろおどろしくなることを避け、原文の自由闊達(かったつ)な語り口を見事に生かし切っている。
【この書評が収録されている書籍】
西ドイツの作家パトリック・ジュースキントのベスト・セラー小説『香水――ある人殺しの物語』の着想の核にあったのは、おそらくあまりにも快く嗅覚を刺激する、こうした香りに対する恍惚と不安であったにちがいない。物語の発端に選ばれているのは、十八世紀中葉のパリ。時代はバロックからロココへと変わり、視覚の面では、パリはヨーロッパ一の都として美しさを極めつつあった。だが嗅覚という点ではパリは墓地の死体、糞便、家畜の死骸などから発散される、諸々の悪臭に悩まされていた。こうしたパリでも、今日ピエール・レスコの噴水が置かれている広場にあった、イノサン墓地は、パリじゅうの貧者の遺体が共同の墓穴の中に雨ざらしで積み重ねられ、パリ以外の人間ならとうてい我慢できないような異臭をはなっていたが、『香水』の主人公ジャン=バチスト・グルヌイユは、この墓地の隣の、これまた大きな悪臭源であった魚市場の中で女魚屋(当時、魚屋はみんな女だった)の私生児として産み落とされる。母親は我が子をすぐさま魚と同じように包丁の一突きで処分しようとするが、グルヌイユは石川淳の『荒魂』の主人公さながらのたくましさで生き延びてしまう。そして棄児院を振り出しに、アンシャン・レジーム下の孤児たちがたどった過酷な境遇をくぐり抜けていくが、預けられた先々で無気味な子供として恐れられる。というのも、この子供は旺盛(おうせい)な生命力を示すばかりか、異常に鋭い嗅覚を持ち、しかも本人は、体臭というものをまったく持っていないのだ。『香水』は、この匂いのブラックホールのような男が「匂いは呼吸と切り離せない以上、匂いを制するものは世界を制する」という認識に基づいて、世界のすべてを「鼻」で識別し、みずから創り出した「愛の香水」で人間の心を支配しようとする物語と一応は要約できるだろう。
だが、もう一つの主役は悪臭と芳香が濃厚なアマルガムをなしていた当時の社会である。ジュースキントは、アンシャン・レジーム下のパリをよほど詳しく考証したらしく、当時パリでかぐことができたはずの匂いをすべてグルヌイユにかぎわけさせている。例えば皮なめし職人となったグルヌイユがさまざまな匂いの混じりあったパリの通りにたたずんで、太い匂いの束を鼻で細かい糸にときほぐしながら歓喜に震えるところは筆者の最も気にいっている場面で、いかなる着色銅版画を以(もっ)てしても、これほどいきいきと十八世紀のパリを蘇らすことはできないだろう。
やがて、ある祭の晩、グルヌイユはこの匂いの固まりの中に、どんな香水もつくりだしえないような芳香をかぎとる。それは十三、四の少女の匂いだった。グルヌイユはその匂いを存分に味わいたいがために少女を殺害する。ここからこの至高の「匂い」を創造しようとする鼻男の遍歴が始まる。グルヌイユは、まず、左前になったシャンジュ橋の香水屋に弟子いりしてたちまち頭角を現し、次々と新しい香水を調合して、主人に巨万の富を稼がせるが、やがて究極的な匂いの保存法を学ばんとして香水の町グラースに向かって出発する。これ以後、物語はオーベルニュ山脈での山ごもりから、グラースにおける少女連続殺人と絞首台での奇跡へ、さらには生誕の地に舞い戻ってのグルヌイユの「昇天」まで、十八世紀風のピカレスクを装いつつ、極めて倒錯した形でイエス・キリストの生涯をなぞっていく。もちろん、一切の人間的感情を欠いた怪物であるグルヌイユを、そのままイエスになぞらえるのは無理があろうが、どちらも人々の心を「愛」で満たす絶対的な力をつくりだした、という点では変わりがない。そして当人は「愛」とはまったく無縁な異邦人の孤独に耐えていたという点でも……。
筆者は先ごろ、この小説に着想を提供したと噂(うわさ)されるアラン・コルバンの『においの歴史――嗅覚と社会的想像力』(新評論。藤原書店より再刊)を山田登世子氏との共訳で訳出したが、その筆者が読んでも、ジュースキントは当時の資料を完全に自家薬籠中のものにし切っていささかも間然するところがない。なお、訳文はいたずらにおどろおどろしくなることを避け、原文の自由闊達(かったつ)な語り口を見事に生かし切っている。
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図書新聞 1989年1月28日
週刊書評紙・図書新聞の創刊は1949年(昭和24年)。一貫して知のトレンドを練り続け、アヴァンギャルド・シーンを完全パック。「硬派書評紙(ゴリゴリ・レビュー)である。」をモットーに、人文社会科学系をはじめ、アート、エンターテインメントやサブカルチャーの情報も満載にお届けしております。2017年6月1日から発行元が武久出版株式会社となりました。
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