書評
『供花』(新潮社)
貧乏、憎しみ、関西弁
町田康の『くっすん大黒』(文藝春秋)を読んだら、なんやエラい関西弁がなつかしうなった。いや、なつかしうなったんは、別に関西弁だけやないんやけどな。そや、この前「文學界」を読んどったら、新人賞の候補作がほとんど関西弁で書かれとったんや。どないなっとんねん。ほんまに、世紀末の現代文学は関西弁が支えんのか? 吉本興業はテレビに続いて、活字も支配するつもりなんやろか。そういやあ、松本人志もこの「週刊朝日」から超ベリヒット出しとったなあ。なんの話しとったっけ? おう、町田康やった。『くっすん大黒』に続いて、五年ぶりに新装版が出たばかりの『供花(くうげ)』(思潮社)を遅ればせながら読んで、これもごっつ感心したわ。こっちは詩集やけどな。
町田康は日本では珍しい成功したパンクロッカーいうことになってるんやが、なんで日本でパンクロッカーが成功するのが珍しいかというとな、元々「パンクロック」いうんは階級的憎しみがベースになってるからなんや。イギリス行ったらわかるけど、あそこはめっちゃ階級社会やねん。金持ちはまだぎょうさんおるけど、貧乏人はもっとぎょうさんおってな。で、貧乏人の階級に生まれつくと、なかなか浮上できへんねん。金もない、職もない、未来もない。アホくさ。お前ら、みんな死んでまえ。そういうのがパンクやねん。別にファッションでパンクやってるわけやないねんで。そやから、中産階級ばっかりの日本でパンクやっても、ピンとけえへんねん。ほなら、貧乏で怒っとったら、パンクができるんか? 日本だって憎しみと貧乏でいっぱいやいう人はおるはずや。
ところがなあ、そうは問屋がおろさへんわけや。
憎しみや絶望や怒りや貧乏いうても、それだけで絵になるっちゅうか、表現になるわけちゃうねん。
そんなにおまえが貧しいのは おまえが正直だからじゃない
そんなにおまえが貧しいのは おまえの頭が悪いからや
「俺ここで 死ぬと 思たら 阿呆らしいて 笑い止まらん」
「何も怕れず 何も考えず 赤飯炊いて 笑て暮らそや」(「笑て暮らそや」より)
金持ちのヤツの翼にのって“ゴーズ・オン”で働く
夢にみるのはエビ エビのおどりよ
五十八にもなって 歌を歌いながら魚釣りの邪魔したか
夜ごと 三畳間から キャデラックに
小便かけたか
敵はおまえのコレステロールと呟くか
切ない吐息と一緒やろ
無いのは銭やろ(「貧乏人は海老を食え」)
なんかこう決まってると思わへん? 別に町田康は関西弁の詩(あるいは詞)ばかり書いたり歌ったりしてるんやないんやけど、ベースにあるのはそれなんや。関西弁ちゅうのは、憎しみや貧乏をソフィスティケートして表現するのにぴったりやないやろか。名作『ナニワ金融道』かて、テーマは金やなくて銭。感じ出てるがな。関西弁はもしかしたら、階級なき日本で階級の役割を果たしてるのかもしれへん。
誰かが書いとったけど、小説いうジャンルは資本主義に似てるそうや。資本主義は発達するためにその周辺に未発達の辺境(「貧困」も辺境や)が必要なんや。小説も同じで、いま目をつけてるのが関西弁という「辺境」ちゅうわけや。
それにしても電話で関西の親戚と話す時は苦にならへんけど、関西弁で書くのは難儀やなあ。
【この書評が収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする









































