解説
『高村光太郎全集〈第21巻〉 補遺』(筑摩書房)
谷中の家
昨日は日暮里の諏方(すわ)神社の大祭であった。今年は本祭りで、往来では町会の盆踊りをやっているし、坂に沿ってはずらりと提灯がゆらめき、神輿の中継所では渡すの渡さないのと、町会同士の悶着があったとかでなかなか賑やかだった。ふと高村光太郎も、子どものころこの社の氏子でお祭りに駆け回っていたことを思い出した。明治二十年代半ば、七つ八つの光太郎が住んだ谷中町三十七番地、高村光雲の家である。一方、光太郎と智恵子が大正四年末以来、近代的で自由な個と個の結びつきを実験し、黒い木造のアトリエでトマトやトーストを食べるような生活をしていたのは三崎坂を下り、反対側の団子坂を上った本郷区駒込林町二十一番地。
しかしほど近くにありながら、この二つの家は二十年を置いて隔絶している。
かたや江戸っ子気質の職人の家、かたや西欧新帰朝の文化人の家。
そしていまも、谷中には路地や長屋が残り、醬油や味噌を借り、祭りとなれば嫁いだ娘、独立した息子も帰って賑やかに騒ぐ下町庶民のつきあいが残る。千駄木の高台にはあまり近隣とつきあわない個人主義の知識層が多く住んでいる。百年たっても土地はその性格を変えてはいない。
高村光太郎は明治十六年、下谷の西町三番地の生れである。西町三番地といえば旧柳川藩立花家の邸あと、ここは故郷柳川をしのんで堀をめぐらしていた。その堀に沿った九尺二間の長屋で光太郎は生れた。裏に紺屋があった。父は町の仏師光雲。母とよは落魄した家の娘で、光雲に貰われたことを嬉しがって生涯一心に尽くした。
いく度か、子ども時代を回顧する光太郎によれば、それは「ひどく暗い感じ」であった。江戸の仏師の伝統は廃仏毀釈運動のためにとだえ、光雲は「浜物」とよばれる横浜から輸出のスーベニアの原型づくりで一家を養っていた。その納めた先が神田旅籠町の三幸というのが興味深い。
三幸は三河屋幸三郎といって、上野の戦争のあと、円通寺の大禅仏磨和尚とともに彰義隊士の死体の片づけ、弔いに奔走した義俠の人である。光雲は生活苦から、香具師(やし)の頼みで下谷佐竹っ原に見世物の大仏を作ったり、酉の市の熊手を作って売ったりもした。
しかし牙彫に流れず木彫の伝統を守ったことがむしろ幸いして、明治二十二年、光雲は創立直後の東京美術学校に招かれ、木彫科教授となる。冷や飯草履に尻っぱしょりの職人が教授に抜擢され、さぞかしとまどったであろう。岡倉先生が見えるなら酒がなければと大騒ぎし、天心に対しては「御意に御座ります」と平伏する父の姿を、子どもの光太郎は悲しみと批評をもって見つめた。
そこから高村家は御徒町三丁目に越す。洋画家川上冬崖の家の近くだった。ここで光雲は大病をし、一年ほど手がふるえて仕事ができなかった。筋向いに牛乳屋があったが、高村家では牛乳を用いなかったというのも面白い。福沢諭吉が明治初年に牛乳を奨励し、立身出世を夢みて上京した森鷗外の家では、母みねが息子に健康のため毎日牛乳をすすめたというのに、高村家はあくまで文明開化に反抗して、江戸風の生活をつづけていた。
牛肉を家の中で用いるのをいやがり、食べる時はわざわざ「いろは」に行ったという。
木村荘平が多勢の妾たちに支店を任せた牛鍋チェーン店だが、その「いろは」の一軒が御徒町にあったらしい。木村の息子の一人が「フューザン会」や「パンの会」で光太郎と出会う木村荘八である。
谷中町三十七番地に越したのは、そこが上野の山の美術学校から近かったこと。御徒町は低地で水も悪く、空気も淀んでいたから、高台の清涼な谷中を選んだのに違いない。
この谷中の家は下谷の料亭伊予紋の家作であったという。伊予紋は下谷屈指の料亭で根岸党の文人、天心や露伴がひいきにした店だが、新橋―上野間の鉄道がつながる時に線路の一部となってしまった。
谷中町はほんの十五、六軒の小さな町である。家は古風な造りで、表に狐格子の出窓があった。裏は南に面して広い庭があり、石屋の石置場に続いていて、その前に総持院という不動様のお寺があった。
この総持院は現存するが、どうも道と本堂との位置関係がおかしい。斜めになっている。私は近所で聞き取りを続け、いまの広い改正道路が昔の路地を斜めに切っていることに気づいた。すなわち、昔の高村家は、横断歩道のその上あたりということになる。
光太郎は諏方神社の前の日暮里小学校に通った。車屋の友ちゃん、花屋の金ちゃん、芋屋の勝ちゃん、隣のお梅ちゃんなどが幼なじみであった。これも聞き回ってみると、近くの花定の先代は明治十五年生れで粕谷金蔵ということや、菊の湯の並びに戦前、老夫婦の経営する「芋勝」という芋屋があったこと、茶屋町の裏通りに柴田という人力車屋があったことなどが確かめられた。彼らがゴミ隠しやかくれんぼに興じた石置場とは、日本一ともいわれた石屋、広群鶴のものである。
通りのどぶ板の上で、おとなしくままごともしたが、男の子が集まると谷中の墓地へ押し出していくさごっこをやった。墓地には四季の草木が咲き、夕暮になると幾万羽という鴉の群れが飛びかい、夜はまったく怖いお化けの世界であった。「私の自然に対する愛情は全くこの墓地の中で育てられたといつてよいのである」(「子供の頃」)
明治二十五年の夏、お諏方様の祭りで、光太郎が鈴襷をかけ、万灯をかついで街をかけ回っていたころ、最愛の姉さくが病気になり、九月九日に死んだ。樋口一葉に似た風貌の姉は絵が上手で、下谷竹町の狩野寿信のところへ薄暗い上野の森を抜け、毎日稽古に通っていた。その年は光雲の厄年なので、親思いのさくは、隣の総持院のお不動様に「父の災難の身代りにさせてくれ」と願をかけていたという。
愛娘の死にしょげた光雲は谷中が嫌になって、向いの丘、駒込千駄木林町に越した。秋だったから団子坂菊人形の人込みの中を引越し車をひっぱっていった。
光太郎が幼いころを回想するとき、江戸の職人の家の迷信、旧弊、不衛生、親分気質、俗っぽさ、などへの反発や否定と、彼を包んでいた環境の居心地の良さ、親和性、父の子煩悩、母の溺愛などの懐しさが入り交り、一種、微妙な感じがある。
原風景はたしかに輝いている。しかしそれは世間という無理が通れば道理が引っこむ、長いものには巻かれろの世界でもあった。徳川びいきのくせに、彰義隊士の刀や金品を分捕り、たわいなく“天朝様”にのりかえてしまうような庶民が多く住む社会でもあった。
いまも町には腕はよく、一徹で正直ではあるが、意外に勲章や表彰をありがたがり、気にするような職人さんや工場主がいる。そういう人びとと会うとき、いや私もその一員かも知れないが、光太郎が抱いたにちがいない複雑な感情が少し分る気がする。
【初出】高村光太郎全集〈第21巻〉 補遺(3) 月報
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