書評
『それはどっちだったか』(彩流社)
憎悪にとらわれ怪物化する凡人
マーク・トウェインが、ドストエフスキーら近代小説の本格派と並ぶ作家であることを示す、傑作である。晩年に書かれたこの未完の大作は、長らく不遇をかこってきたが、その内容たるや、現代の新作小説と言ってもよい。舞台は19世紀半ば、アメリカ南部の片田舎。名家のハリソン家は落ちぶれ、高齢の当主アンドリューは、もう一つの名家フェアファクス家の通称〈旦那〉に借金をしていた。だが紳士であったはずのアンドリューはその借金をニセ札で返そうとして発覚、再度の返済を要求される。後で〈旦那〉は自分の厳しさを恥じ、借金をチャラにしてニセ札も返すことを決めるが、行き違いが重なってハリソン家に伝わらない。一方で憎しみに心を支配されたアンドリューは正気を失い、あることないことを息子のジョージに吹き込む。やはり人格者として人望の篤(あつ)かったジョージは、その言葉に翻弄されるうち、自分の歯止めが外れるのを感じる。それは父が説く、意志の強い人間になるには、誘惑に身をゆだね、それに屈する経験を経る必要がある、という奇怪な理論の実践にほかならなかった。
ジョージはフェアファクス家に忍び込んで札束を盗もうとするが、同じく盗みに入っていた自分の使用人と鉢合わせし、殺害してしまう。すぐに逃走したため、嫌疑は家主である〈旦那〉にかかる。以降、ジョージはさながら『罪と罰』のラスコーリニコフよろしく、ひどく怯え続けながら、いびつな理屈で内省し、自首する機会を失い続ける。
ジョージが怯えているものの一つが、体面である。自らの犯罪が次々と無関係の人を巻き込んで取り返しのつかないダメージを与えていくさまを、「過ちの系統樹」として図に描くジョージは、そのおおもとを「偽りのプライド」と断定する。その最たる言葉が、小説内に満ちて登場人物たちの行動を決めさせる「男らしさ」だ。ジョージは、潔く名乗り出られない自分を「男ではない」と断罪し、罪を被(かぶ)せられても堂々としている〈旦那〉の「男らしさ」にうちひしがれる。自覚しても、偽りのプライドからは逃れられない。
物語は途中から、ジョージが突然相続することになる財産を狙う者たちの陰謀や、白人への復讐の念に凝り固まった「自由黒人」の復讐譚もからんで、錯綜していく。
この小説世界を陰惨にしているのは、どの人物ももとは善良で親切な凡人たちであったという事実だ。普通の善人たちが、いかにして利己的な欲望や憎悪に囚われて怪物化していくのか、その過程の容赦なく克明な描写こそが、この小説の恐るべき魅力である。
朝日新聞 2015年4月26日
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