選評
『切羽へ』(新潮社)
直木三十五賞(第139回)
受賞作=井上荒野「切羽へ」/他の候補作=荻原浩「愛しの座敷わらし」、新野剛志「あぽやん」、三崎亜記「鼓笛隊の襲来」、山本兼一「千両花嫁 とびきり屋見立て帖」、和田竜「のぼうの城」/他の選考委員=浅田次郎、阿刀田高、五木寛之、北方謙三、林真理子、平岩弓枝、宮城谷昌光、渡辺淳一/主催=日本文学振興会/発表=「オール讀物」二〇〇八年九月号楔(くさび)の問題
散漫な印象批評は候補作に失礼である。そこで評者(わたし)なりの筋金(すじがね)を一本とおして書くことにしよう。単調で退屈な日常生活に、コトバや音やその他の手段を用いて発止(はっし)と楔(くさび)を打ち込み、空いた穴から覗き込むと、ふだんの暮らしのすぐ下は、さまざまな危険の地雷原で、それぞれの人生がいまにも火がつきそうな火薬樽の上で営まれている。人生のこの真実を受け手側に知らせること、それが芸術のはたらきである、とする。もちろん日常の退屈を忘れさせるのも芸術のりっぱなはたらきだから、これも勘定に入れて……とにかく「単調で退屈な日常生活」を、それまでとはちがうふうに見えさせるもの、それが芸術の役割だと決めて、今回の筋金とする。
三崎亜記氏の『鼓笛隊の襲来』に収められた九篇は、機知にあふれた楔でいっぱいである。台風より怖そうな鼓笛隊、人間の記憶の不確かさ、奇妙な欠陥住宅、遊園地のホンモノの象さん滑り台、行方不明になった下り列車、そして女性のからだから生えたボタンなどが楔となって、登場人物たちの平凡な日常へびしびしと打ち込まれる。削(そ)ぎに削がれた文章が一篇一篇を寓話のようにくっきりと彫り上げているが、各篇結尾の日常への戻り方がすべて〈人の世の哀しみ〉と一色(いっしょく)なのは(ここが意見の分かれるところだが)評者にはもどかしかった。
荻原浩氏の『愛しの座敷わらし』では、むろん座敷わらしが楔。その楔は田舎へ引っ越した一家に打ち込まれはするものの、その効果はじつにゆっくりとしたものだった。座敷わらしがある者には見え、ある者には見えないという設定を慎重に扱うあまり、前半がずいぶんもたついた。全体の四分の三をすぎたあたりで、ようやく楔は楔本来の役目を果たしはじめ、それからは快調な仕上がり。後半はとてもおもしろい。けれども、それでも前半のもたつきを補うには足りなかった。
新野剛志氏の『あぽやん』の楔は、航空券から空港のはたらきを見れば……という、その角度そのものにあった。空港の仕組みとその機能的な美しさ、そこで展開されるさまざまな人生の、その瞬間、その瞬間のおもしろさなど、魅力がたっぷりとあるが、しかし筋立ての展開にリズムがすこし欠けていたのではないだろうか。リズムは楔を打ち込むときの動力の一つ、これが弱いと、楔は深く入らないようにおもう。
山本兼一氏の『千両花嫁』は、幕末の京を舞台にした連作集である。三条木屋町の骨董商「御道具 とびきり屋」を営む真之介とゆず夫婦。そこへ客として、あるいは下宿人として、芹沢鴨や近藤勇や高杉晋作や坂本龍馬などの大立(おおだ)て者(もの)が出入りするという吹き寄せの趣向は、めざましい発明である。そこでこの作での楔は、道具商には欠かせない〈見立て〉の力ということになるが、この見立てを仕掛ける作者の工夫がもうひとつ練(ね)れていればよかった。見立てを仕掛けられた敵役がみな幼く見えたのは残念だった。しかし読み味のいい小説である。
和田竜氏の『のぼうの城』では、日常ではなんの役にも立たぬデクノボウが楔になっている。その役立たずの男が戦さという非日常でぐんと存在感をますのはなぜだろうか。それは彼が非日常でもやはりデクノボウのままでいるからである。これはおもしろい逆説であり、語り口には張り扇の音が聞こえてきそうなほど調子がよくてリズムがある。調子がよすぎて「読物」へ堕ちかけてもいるが、袋小路に入ってしまった体(てい)のある現代(いま)の小説を、もう一度、読者の方へ引き付けるには、この調子のよさは貴重であるとおもい、最初の一票をこの作に投じた。
井上荒野氏の『切羽へ』には二つの世界がある。一つは島の小学校の教員たちが演じるドロドロの愛欲世界で、これが遠景である。もう一つはひと組みの夫婦の静穏な世界、これが近景にある。楔はこの二つの世界の境界に打ち込まれた得体の知れない男性教師で、やがて近景にいた女性養護教諭セイは、その楔で空いた穴から、自分の内側で渦巻いている性の危険な衝動を覗き見ることになる。しかし二人は手を握ることもなく別れてしまう。哀れなのはセイの夫の画家であって、セイが男性教師に注ぎたいと願った性の衝動を、代わって受けとめる羽目になり……こうしてセイは妊娠し、二人にはまた静穏な日常が戻ってくる。よく企(たくら)まれた恋愛小説ではあるが、評者には退屈だった。あんまり話がなさすぎる。近景の人たちの行い澄ました言動も絵空事にすぎる。
けれども、ここで実現された九州方言による対話は、これまでに類を見ないほど、すばらしいものだった。これほど美しく、たのしく、雄弁な九州方言に、これまでお目にかかったことがあっただろうか。いっそわが国の共通語にしたいくらいみごとな方言だった。最終投票で、評者は、この九州方言による対話に票を投じた。
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