書評
『小さいおうち』(文藝春秋)
遅れて生まれてきた者にとって、歴史は常に大文字です。しかも、なんか、こう、太ゴシック体でごついイメージの。
「一九三六年 二・二六事件」「一九三七年 日中戦争」「一九四一年 真珠湾攻撃」「一九四五年 東京大空襲」などなど。そういった文字を見るたび、カッカッカッと軍靴の音が高くなっていき、出征兵士を見送る人たちの万歳三唱が聞こえ、B29約三百機による焼夷弾爆撃で東京の夜空が真っ赤に染まりといった、戦争を扱った小説や映画やドラマで刷り込まれたお定まりのイメージが脳裡に浮かぶんです。あの時代を実際に生きていない上、もろもろ不勉強なわたしにとって、戦争はそんな風に大文字&太G&クリシェの姿で立ち現れがちだったんですの。だから――。
〈アメリカと戦争が始まって、なにがよかったって、世の中がぱっと明るくなったことだ。/ちょっとばかり、食べ物は貧相になっていたけれども、(略)南方のゴム会社の株やなにかが、どんどん上がっていって、それで大儲けした人なども出て、街が少し賑やかになり〉といった、教科書などで教えられた「欲しがりません、勝つまでは!」というプロパガンダが象徴する戦時下の状況とは正反対の記述が多々ある、中島京子の『小さいおうち』に感じ入ることしきり。女中働きをしていた女性の視点から描かれる、戦前から戦後にかけての日本の市民生活を背景にしたこの小説には、威圧的でよそよそしい太ゴシック体とは正反対、柔らかで親しみやすい細明朝体の歴史が生き生きと綴られているんです。
物語の語り部は、大正生まれの老女タキ。昭和五年、尋常小学校を卒業してすぐ上京し、女中奉公に入ったタキが、十四歳の時に出会って以来、十三年間仕えることになった奥様・時子との交流を回想するというスタイルの小説になっています。タキは八歳年上の美しくて優しい時子奥様に心服しており、再婚相手の旦那様が、奥さまと恭一ぼっちゃんのために建てた赤三角屋根の洋館を〈終の棲家と思い定め〉るほど、献身的に仕えます。御用聞きと仲良くすることで、食糧物資難が噂されるようになっても一家の食卓が寂しくならないよう心を砕いたり、一家を代表して防火活動に励んだりと、華やかなことが大好きで、そうした生活一般の雑事が得意ではない奥様に代わって、大活躍するんです。
で、その合間合間に先ほど引用したような、女性視点の戦中生活が描かれているんですが、その疑義をただそうとする人物を添えているのが、この小説のバランスの良さというべきでしょう。タキの回想記を勝手に読む甥の次男・健史の口から〈おばあちゃんは間違っている、昭和十年がそんなにウキウキしているわけがない〉とか、南京陥落の戦勝セールが楽しかったなんて〈南京じゃあ、大虐殺が起こってたのに〉悪夢だとか、いかにも後世の若者が口にしそうな感想を引き出すことで、太G体と細明朝体の歴史観の違いを鮮やかに示すことに成功しているんです。そしてまた、この小説は人が自分史を語る時にどうしてもやってしまう、都合の悪いことや思い出すのもつらいことの隠蔽や捏造を明らかにする最終章によって、物語の奥行きをさらに一層深めていくのです。
太G体、細明朝体、肉筆。歴史を物語る三つの声が共鳴しあって、この小説はこれまであまり語られることのなかったたぐいの昭和史を、時子奥様の秘められた恋、その成りゆきに否応なしに関わっていくことになるタキの本当の思いの後景に描いていく。戦争を知らない世代の作家が昭和を知らない世代へと手渡す、これは“小文字”の傑作小説です。
【この書評が収録されている書籍】
「一九三六年 二・二六事件」「一九三七年 日中戦争」「一九四一年 真珠湾攻撃」「一九四五年 東京大空襲」などなど。そういった文字を見るたび、カッカッカッと軍靴の音が高くなっていき、出征兵士を見送る人たちの万歳三唱が聞こえ、B29約三百機による焼夷弾爆撃で東京の夜空が真っ赤に染まりといった、戦争を扱った小説や映画やドラマで刷り込まれたお定まりのイメージが脳裡に浮かぶんです。あの時代を実際に生きていない上、もろもろ不勉強なわたしにとって、戦争はそんな風に大文字&太G&クリシェの姿で立ち現れがちだったんですの。だから――。
〈アメリカと戦争が始まって、なにがよかったって、世の中がぱっと明るくなったことだ。/ちょっとばかり、食べ物は貧相になっていたけれども、(略)南方のゴム会社の株やなにかが、どんどん上がっていって、それで大儲けした人なども出て、街が少し賑やかになり〉といった、教科書などで教えられた「欲しがりません、勝つまでは!」というプロパガンダが象徴する戦時下の状況とは正反対の記述が多々ある、中島京子の『小さいおうち』に感じ入ることしきり。女中働きをしていた女性の視点から描かれる、戦前から戦後にかけての日本の市民生活を背景にしたこの小説には、威圧的でよそよそしい太ゴシック体とは正反対、柔らかで親しみやすい細明朝体の歴史が生き生きと綴られているんです。
物語の語り部は、大正生まれの老女タキ。昭和五年、尋常小学校を卒業してすぐ上京し、女中奉公に入ったタキが、十四歳の時に出会って以来、十三年間仕えることになった奥様・時子との交流を回想するというスタイルの小説になっています。タキは八歳年上の美しくて優しい時子奥様に心服しており、再婚相手の旦那様が、奥さまと恭一ぼっちゃんのために建てた赤三角屋根の洋館を〈終の棲家と思い定め〉るほど、献身的に仕えます。御用聞きと仲良くすることで、食糧物資難が噂されるようになっても一家の食卓が寂しくならないよう心を砕いたり、一家を代表して防火活動に励んだりと、華やかなことが大好きで、そうした生活一般の雑事が得意ではない奥様に代わって、大活躍するんです。
で、その合間合間に先ほど引用したような、女性視点の戦中生活が描かれているんですが、その疑義をただそうとする人物を添えているのが、この小説のバランスの良さというべきでしょう。タキの回想記を勝手に読む甥の次男・健史の口から〈おばあちゃんは間違っている、昭和十年がそんなにウキウキしているわけがない〉とか、南京陥落の戦勝セールが楽しかったなんて〈南京じゃあ、大虐殺が起こってたのに〉悪夢だとか、いかにも後世の若者が口にしそうな感想を引き出すことで、太G体と細明朝体の歴史観の違いを鮮やかに示すことに成功しているんです。そしてまた、この小説は人が自分史を語る時にどうしてもやってしまう、都合の悪いことや思い出すのもつらいことの隠蔽や捏造を明らかにする最終章によって、物語の奥行きをさらに一層深めていくのです。
太G体、細明朝体、肉筆。歴史を物語る三つの声が共鳴しあって、この小説はこれまであまり語られることのなかったたぐいの昭和史を、時子奥様の秘められた恋、その成りゆきに否応なしに関わっていくことになるタキの本当の思いの後景に描いていく。戦争を知らない世代の作家が昭和を知らない世代へと手渡す、これは“小文字”の傑作小説です。
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