書評
『フランソワ一世 フランス・ルネサンスの王』(国書刊行会)
芸術愛し、人々を明るくさせた功績
今年はフランス・ヴァロワ朝のフランソワ一世が統治を開始した一五一五年から数えて五〇〇年に当たる。この王の御代からフランスではルネッサンスの大輪が開いたのである。果たしてフランスで最も人気のある王について日本でどれだけ知られているだろうか? この意味でまことに貴重な伝記である。フランソワ一世はヴァロワ朝の系譜で傍系に当たるアングレーム伯の長男として一四九四年に生まれた。まさか彼が王になるとは誰も思わなかったが、母親のルイーズ・ド・サヴォワだけは違った。修道士フランチェスコによってフランス王を身ごもると予言されていたからだ。一五一五年一月一日、ルイ十二世が跡継ぎを残さずに崩御し、ついに母の願いは実現する。
二十歳で即位した新王は一メートル九十はある美丈夫。筋肉は隆々と盛り上がり、スポーツ万能。芸術を愛し、文芸の素養は高く、王にふさわしい威厳を備えていた。しかし、あまりに自信過剰だったせいか、即位後すぐに曽祖母の国の「奪還」を目指してミラノ公国に侵入。マリニャーノの戦いで「騎兵の先頭に立って突撃」し、ミラノに入城する。「青春時代の夢はかなえられ、彼はカエサルにたとえられる。それに彼は二十一歳なのだ!」。翌年、ローマ教皇との間で政教協定(コンコルダート)が結ばれ、「以後、フランス教会は国王の支配下に置かれた――それは王国の崩壊まで続く」。
ここまでは順風満帆だったが一五一九年に強力なライバルが出現する。スペイン王カルロス一世が神聖ローマ帝国皇帝選挙でフランソワ一世を破り皇帝カール五世として即位したのだ。「フランソワはカルロス一世には我慢できても、カール五世には我慢できなかった。戦争は避けられないものになっていた」。こうして一五二〇年代のヨーロッパは二人の戦争に覆い尽くされる。これにイングランド王ヘンリー八世とローマ教皇の思惑がからんで、戦争は断続的に続く。母太后ルイーズの強欲さでブルボン大元帥が皇帝側に寝返った結果、パヴィアの戦いでフランソワ一世が皇帝の捕虜になるなどアクシデントが相次ぎ、フランスは国土分割の危機に見舞われるが、母太后の獅子奮迅の活躍でフランソワ一世は解放され、その後の状況の変化で一五二九年のカンブレー条約の締結にこぎつける。
このときからフランソワ一世の名君伝説が始まる。「彼は生来の芸術家である。彼は美しいものを、上品で優美な形を愛する」。「王は、教養ある愛好家である以上に、芸術家自身に忠告をすることができる目利きであり、さらには芸術の推進者」である。「彼は学識者の、つまり学者の父であった」。王は図書館を充実させ、翻訳を奨励し、印刷業者を保護し、コレージュ・ド・フランスの前身である王立教授団を設立する。「まさに彼はルネサンスの王であった!」
業績から判断すると、度重なる戦争や年金の大判振る舞い、王宮の造営や美術品の購入で財政赤字を拡大させたという点でフランソワ一世には大きなマイナス評価が付く。だが、次の一点で他のどんな王をも凌いだのである。それは上機嫌な王だったことだ。「フランソワ一世は活力旺盛で幸福な君主であり、『いつでも笑うことのできる』と彼の同時代の人々が指摘したように、今日言うところの、生きる歓(よろこ)びですべてを明るくする王なのである」。フランス人が好きな王であるのもむべなるかな、である。
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