書評
『ニコライ遭難』(新潮社)
皇太子旅程と西郷の“接点”
ロシアの皇太子(後のニコライ二世)が日本を訪れたのは明治二十四年四月二十七日であった。その半月後ニコライは滋賀県大津であろうことか彼を警護していた巡査に突然、サーベルで斬(き)りつけられた。有名な大津事件である。大津事件について書かれた本は幾つもあり、主要なものはほぼ読み通してきたのでかなり詳しいと自負していた僕は、本書をめくりながらまったく新鮮な眼で、なるほどそういうことだったのか、とあらためて事件の意味を理解させられることになった。
著者は、ニコライ一行が乗るロシア艦が長崎港に入ってくる場面を淡々と描写していく。長崎に着いたニコライは、公式訪問の前に密かに上陸して市内で土産品を購入して歩き、また刺青師を艦に招いてカラフルな竜の絵柄を腕に彫ってもらったりする。日本政府の密偵は、そういう一部始終をすべて報告していた。皇太子の身の安全ばかりでなく、虎視眈々(こしたんたん)と南進の機会を窺(うかが)う大国ロシアの動静を監視する必要があったからだ。
ニコライ一行は長崎港を出ると瀬戸内海を神戸へと向かい、京都とその周辺を遊覧する予定であった。ところがロシア側から提示された皇太子の旅程には逆方向の鹿児島訪問が組まれていた。なぜ鹿児島なのか。この理解に苦しむ鹿児島行きは、思わぬ流言をひろめた。明治十年の西南戦争で西郷隆盛は死なずにロシアへ渡り、シベリアのある地域でロシア兵の訓練を指導していたが、ニコライの世界巡航を利用して帰国することになった……。
こうした伏線は、やがて津田の犯行の動機に重ねられていく。津田は「露国ノ皇太子ガ日本ニ御出ニナルナラ、先ヅ東京ニ御出ニナルベキニ、鹿児島ニ一番ニ行カルルハ西郷アル為ナルベシ」と信じていたのだ。西南戦争で政府軍の末端兵士として戦い負傷したこの人物は、異国の皇太子の行状を許されないものと考えはじめていく。新資料を得た著者の筆は明快である。
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