書評
『たまたま生まれてフィメール』(平凡社)
新聞をめくると、大抵どこかで政治家による失言が報じられている。ずっと失言が繰り返される、それってつまり、失言ではなく本音なのだ。
どれだけその手の発言を重ねても、大物になればなるほど岩盤支持層が支え、メディアもいつの間にか報じるのをやめて、SNSでは「問題だけど、吊るし上げているだけでは変わらないよね」と冷静な自分をアピールする人が現れる。これらが絡み合い、なかったことにされるのだ。
『たまたま生まれてフィメール』(小川たまか著・平凡社・1980円)は、ジェンダーをめぐる問題を取材し続けてきた著者が、自身の経験や目の前の生活を綴りながら、この国の変わらなさ、その理由を探し当てようと試みる。
なぜ森喜朗はずっとああなのか(詳細を伝える紙幅がないので「ああ」でいいだろう)。「この人は本当に周囲から守られているんだな」「そうでなければ、ここまで自分を客観視できない事態にならないと思う」と小川は書く。彼がああなのは、彼だけではなく、あちこちで「女は〇〇」という断定が繰り返され、それが結論にされてきたから。
政治と個人、社会と生活は当たり前のように連結しているのに、政治や社会問題について書く物書きは、そっち系の人、と遠ざけられる。気づけば主流は、読み手をエモい(心が揺さぶられる、との意)気持ちにさせる、心地よくさせる記事や書き手になった。以下の小川の指摘に唸る。
「解決策の見出せない社会問題に向かい合うよりも、人々はわかりやすいエモを求めているのだ。たのしくて、ふわふわして、こころがふるえるものが、いいと、おもうよ。けれど私は感じざるを得ない。エモの中に潜んだ政治性を」
そう、あれ、政治的なのだ。声を上げている人の前に立ちはだかるわけではない。とにかく遠くにいて、エモい記事にほっこりする。結果、いつもの人がこれまでの言動を繰り返す流れが保たれる。今この社会で起きていることを、個人の目だけで捉えたこの本を読むと、そんな流れがクリアに見えてくる。
どれだけその手の発言を重ねても、大物になればなるほど岩盤支持層が支え、メディアもいつの間にか報じるのをやめて、SNSでは「問題だけど、吊るし上げているだけでは変わらないよね」と冷静な自分をアピールする人が現れる。これらが絡み合い、なかったことにされるのだ。
『たまたま生まれてフィメール』(小川たまか著・平凡社・1980円)は、ジェンダーをめぐる問題を取材し続けてきた著者が、自身の経験や目の前の生活を綴りながら、この国の変わらなさ、その理由を探し当てようと試みる。
なぜ森喜朗はずっとああなのか(詳細を伝える紙幅がないので「ああ」でいいだろう)。「この人は本当に周囲から守られているんだな」「そうでなければ、ここまで自分を客観視できない事態にならないと思う」と小川は書く。彼がああなのは、彼だけではなく、あちこちで「女は〇〇」という断定が繰り返され、それが結論にされてきたから。
政治と個人、社会と生活は当たり前のように連結しているのに、政治や社会問題について書く物書きは、そっち系の人、と遠ざけられる。気づけば主流は、読み手をエモい(心が揺さぶられる、との意)気持ちにさせる、心地よくさせる記事や書き手になった。以下の小川の指摘に唸る。
「解決策の見出せない社会問題に向かい合うよりも、人々はわかりやすいエモを求めているのだ。たのしくて、ふわふわして、こころがふるえるものが、いいと、おもうよ。けれど私は感じざるを得ない。エモの中に潜んだ政治性を」
そう、あれ、政治的なのだ。声を上げている人の前に立ちはだかるわけではない。とにかく遠くにいて、エモい記事にほっこりする。結果、いつもの人がこれまでの言動を繰り返す流れが保たれる。今この社会で起きていることを、個人の目だけで捉えたこの本を読むと、そんな流れがクリアに見えてくる。