書評
『ボク宝―国宝よりも大切なボクだけの宝物』(光文社)
愛する三角形
小学生のころ、本当に気の合う友達を見つけると、「おい、腕組もうぜ」と、しっかり腕を組み合って歩いたものである。「おれとおまえは友達だ」と言葉で表現するだけではとうてい足りない。どうしても、肉体的に触れ合って一体感を確かめずにはいられない。腕を組むというボディランゲージはそうした切ない感情をよく表現してくれていた。明治・大正の小説を読むと、子供ばかりか、旧制高校生や大学生も友人同士は腕を組んで歩いたということがわかる。「腕を組む」ということが究極の友情表現であるという認識が広く社会に行き渡っていたのだ。
それが今はどうだ。小学生ですら、そんなことをしたら、あいつら変だといわれかねない。いわんや大人においてをや 。まったく嫌な時代になったものである。私はホモセクシュアルには何の偏見もないが、男同士の友情というこの世で最も尊いものにあらぬ疑いを生ぜしめたという点でおおいなる迷惑を感じる。ホモ疑惑というものがなければ、友情を感じた男たちはみんな、腕を組んで歩けたのに!
こうした風潮の中で、みうらじゅんは敢然として「腕組み」を実行している男である。田ロトモロヲと、山田五郎と、いとうせいこうと、泉麻人と、大槻ケンヂと、喜国雅彦と、安斎肇と、いやたとえ相手が女だろうと、友情さえ感じれば、久本雅美とも野沢直子とも篠原ともえとも「腕を組む」。しかも、相手の友情のボルテージが自分ほどに高くないことを知りながら。「連帯を求めて孤立を恐れず」という全共闘のかつ てのスローガンは、みうらじゅんにこそふさわしい。
では、なぜ、これほどにみうらじゅんは「連帯」を求め、「腕組み」を実行したがるのか?
それは自分の愛するモノ(すなわちボク宝)を同じように愛してくれている男がこの世に存在していることを確認したいがためである。谷ナオミを、仏像を、チャールズ・ブロンソンを、水原弘のハイアースを、日野日出志を、ドンジャラを、それぞれ愛する男が自分以外にもいるのなら、その男に「連帯の挨拶」を送って腕組みをしなければ気が済まない。
この意味において、みうらじゅんの友情は基本的に3P的である。3Pプレイというのは、己の愛の深さを、第三者を介入させてその第三者から同意を引き出すことでしか確認できない愛の病だが、みう らじゅんは、「男ーボク宝ー男」という3P関係において、みずからの愛の強さを確かめ、それと同時に、自分の愛するモノを愛する男を愛する。そして、この過程において、「自分の愛するモノを愛する男」も「ボク宝」、つまり「ボク友」となる。
この「愛する三角形」は、いわゆるオタクたちの間に普遍的に観察されるようでいて、実はきわめて例外的にしか見いだせないものである。なぜなら、オタクにおいては、モノへの愛情が2P段階にとどまり(つまり、フェティシズムとなって)、第三のPへの愛の転移は起こらないからである。オタクたちはたがいに相手を「オタク」と呼び合うだけで、「友達」として腕を組もうとはしない。これが、みうらじゅんと、一般的なオタクたちとの決定的な差異である。
そして、この差異は、みうらじゅんが「マイ・ブーム」というかたちで、「ボク宝」をめぐる潜在的3P関係を顕在的なものへと変えようと努力するとき、決定的な段階に入る。谷ナオミを愛する者たちの「深い谷の会」が結成され、『見仏記』が生まれ、ブロンソンズが誕生する。さらに、みうらじゅんが「ボク宝」のことをありとあらゆるメディアで書きまくって「マイ・ブーム」を本当のブームに昇格させようと努めるとき、3Pは4P、5P、6P……nPとなって友情の輪はひろがってゆく(ような幻想が生まれる)。
だが、なぜ、みうらじゅんは2Pではなく、3P以上を求めるのか?
それは、みうらじゅんが、先行世代のように理念によって「腕を組む」こともできず、かといって後続のオタク世代のように2P段階で自足することもかなわぬトホホ世代に属するからだ。
この世代の男たちにとって、子供時代の、モノを巡って行われた「腕組み」こそは永遠のアルカディアである。モノ自体が貴重なのではない。モノに付属する「腕組みの唇気楼」が彼を魅してやまないのだ。
しかし、その一方で、みうらじゅんには、安易なモノについて行われる安易な腕組みを拒否したいという強い反俗感情がある。同世代のだれもが親しんだようなモノから広がる連帯のグロテスクさを彼ほど恐れている人間はいない。埴谷雄高ではないが、「低い鞍部」で乗り越えられてはたまらないのである。腕組みをしたくなるような友は、「高い鞍部」で乗り越えてくる真のエリートでなければならない。
といっても、その「高い鞍部」というのはいささかも高級な趣味を意味しない。鞍部が高いか否かの基準は、ただ、彼、みうらじゅんの心の中にある。みうらじゅんが勝手に決めた「高い鞍部」を次々とクリアーしてきた者だけが、彼と「腕組み」をする資格を得る。さきほど言ったように、彼は連帯は求めるが、安易な連帯は大嫌いなのだ。自分が本当に孤独だと思っている部分でこそ連帯をしたいのである。オレが掟となって認定した「ボク宝」においてのみ「腕組み」のできる友、それが「ボク友」なのである。
したがって、この本は、みうらじゅんという「世界の中心で愛を叫んだけもの」(ハーラン・エリスン)が、真の「ボク友」を求めて世に送り出した「連帯のメッセージ」と解することができるのである。
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