書評
『歴史という教養』(河出書房新社)
自由に生きる糧となる学びを自ら求めていく
本書は真の「歴史教養書」である。「教養書」とは「人が自由人になって自由な視野を持って世の中をこぎわたっていけるようにするための書物」のことであるから、「歴史教養書」は個別具体的な本の謂(いい)ではなく、「歴史を知ることで、現在未来をおのれが自由に生きられる術を手にする本」である。著者の片山さんは人並み外れた叡知(えいち)をたたえ、いつも「幅広く、かつ深く」考えている人である。ぼくはその風貌とも相まって、現代日本の哲学者といえばこの人と思い定めていたけれど、本書中で彼は自身を「温故知新主義者」と定義する。「ふるきをたずねあたらしきをしる」は『論語』の有名な言葉で朱子や伊藤仁斎が「温故」を「先生から習ったことを復習する」意とするのに対し、著者は荻生徂徠に拠(よ)りながら「さまざまな時代や人や仕組みの詳細を知る」ことと読む。それを踏まえて「過去とは重ならない新しい出来事に新しい発想で対処しようとする」ことが「知新」。この理解を基軸に、彼は現代に氾濫する「歴史」について、はなはだ鋭い言説を展開していく。
「事の変ずることは窮まりなし」(徂徠)、歴史はきわめて多様であるから、「温故」は難解な作業にならざるを得ない。簡単な法則などない。これが真実だという決めつけはすべからくウソである。温故知新主義者は相対主義者であり、謙虚で臆病であるべきだ。だがひとたび「自分にとって」の歴史を見定めたなら、今度はそれを生かしていかねばならない。「自由に」未来を切り開く努力をする。すなわち「知新」。それが結果として誤りであったとしても、やむを得ない。「それで倒れるもまたよし」。なるほど、彼が他人に優しく、佇(たたず)まいが決然としているのはこのゆえであったのか。
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