書評
『竜安寺の15番目の石―ソ連が日本に学ぶもの』(サイマル出版会)
裸にされた日本&日本人
外国人の記した日本社会論とくれば、日本の文化・経済の賛美か、あるいは日本の特殊性を言い立てて驚異と脅威を主張するものと、相場が決まっている。まして竜安寺の石と、書名にあれば、きっと日本文化を褒(ほ)めそやしたものであろう。そんな見当で読み進めていったのだが、読むうちに次第に引き込まれていって、著者が説く日本社会論に知らず知らずに同意してみたり、反論してみたりする自分に気がついた。
並の日本論ではない。重なるボディーブローにあって、後半の立ち直りが心配なボクサーの心境を味わってしまった、とでもいえようか。
竜安寺の十五番目の石、いうまでもなく京都の禅寺竜安寺の石庭である。ここには石が十五個配置されているものの、どこから見ても十四個しか見えない。だが、この書名がつけられたのは、捉えどころのない日本の姿を探るもどかしさによるのでは決してない。
著者が自己の位置を明確に定めつつ、多角的に日本を分析しようという目論見によるものである。
足かけ八年にわたって、著者はソビエト・テレビラジオの特派員として日本に滞在した。この間に大量のリポートを作成した著者は、マイクを片手にして企業を回り、政治家に聞き、農村を訪ねた。その成果が本書であり、五年前にソ連で出版された時は、ペレストロイカの進行中ということもあって、ベストセラーになったという。その翻訳が今度の八月政変直後に出されたのである。
この間のソ連の変動は目まぐるしいものがあり、日本もまた数年でもって変化は著しいが、著者は多少の手を入れて変化に対応しているので、時期遅れという事はない。
著者が何よりも力を入れたのは、多くの外国人がそうであるように、日本の経済発展の秘密の解明にあった。日産や松下などの大企業の経営の哲学を探り、そこで働く労働者の組織・意識に注目する。
経営者が異口同音に唱えるのは、企業は労働者からなるという考え。何とソ連の社会主義に似ていたことか。しかも彼らはソ連の社会主義から学んだというのだ。しかし、そこからが違う。
労働力こそ生産力の基礎であるから、そのための経営組織をいかにつくるかが一番問題であると見て、日本の経営者が目をつけたのは、日本のムラ社会に見られる共同体の集団主義であった。
会社は運命共同体であり、家であると見なして、労働者に仲間意識をどのように育てるかに意を注いだのである。労働組合も、QCサークルも、そうした経営者の方針にそって育っていった、と指摘する。何でも利用し、同化を求める実際主義をそこに見る。
この付近の見方は特に目新しいものではなかろう。だが、そこから著者は日本のムラの共同体の性格を徹底的に検証するのである。仲間内の行動をとりたがって、個人になると信念を持たず、仮に持ったとしても貫けない。
共同体の規制は強く、時に村八分の制裁をして、共同体への忠誠心を維持させる。このように日本人には耳の痛くなるような指摘を次々に行うのだからたまらない。
でも、まさか村八分などの遺制は残っていまいと思っていたら、つい最近の「朝日新聞」の社会面は、圃場(ほじょう)整備事業に協力しなかったために、村八分にあって葬儀をだすのを手伝って貰えなかった記事を載せているではないか。
かくしてムラから企業にまで貫徹する共同体の力によって日本経済の発展はもたらされたことを指摘した後、筆はさらに、終身雇用や新人研修の実態にせまり、大企業と中小企業の格差に及び、いかに日本の経営者が「かしこく」「ぬけめない」商売上手であるかを語る。
マイクとカメラはそれだけにとどまらない。学習塾から始まる教育の実情、男女差別の社会構造、家庭のなかで「一歩下がって夫を操る」妻の行動にまで、その鋭い視線を浴びせかける。こうして日本とロシアの諺をちりばめて、日本と日本人の行動を裸にしてゆく。
最早、隠すところないまでに明らかにされた日本人に何が残るのか。つい最近、他人より幸せに思っている人は日本人が一番多い、という調査結果が出たそうだ。その「幸せ」も俎上に載せられている。
振り返って考えれば、著者の指摘はみなこれまでにもどこかでなされてきたものだが、これほどに明快な筆致で抉ったものはそうそうお目にかからなかった。したたかなジャーナリストの腕の冴えをそこに見る。それだけに一刀両断式の決めつけもないわけではないが、核心をついていることは間違いない。読者に是非とも勧めたい本である。
なお、本書の副題には「ソ連が日本に学ぶもの」とある。実際、ソ連では自分の国のことが語られているのだ、との反響があったそうな。あるいはソ連にも日本と同じ構造が存在しているのかもしれない。
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