書評
『海峡の光』(新潮社)
仁成と「人生」
辻仁成(つじひとなり)さんは夜中に電話をかけてくる。そして、文学の話をする。「夜中に電話をかけて」「文学の話をする」知り合いは、彼一人である。よく考えてみれば不思議な感じ。エコーズという人気グループで歌を歌っていた辻さんはそっちの方の活動は休止してしまった。ぼくは、おせっかいにも、両方やればいいじゃないかと思っていた。しかし、辻さんは小説ばかり書くようになってしまった。それも、どんどん。
辻さんには書くことがたくさんある。だから、たくさん書く。考えてみれば、エコーズの時も、辻さんは歌いたいことがたくさんあったから歌っていたのだ。そして、どちらの場合も、辻さんの歌いたかったことや書きたかったことは同じことではなかったか。それは「人生」についてである。
辻さんは「人生」についてまっすぐ直接的に小説に語らせようとしてきた。ぼくが心配したのはそのことだった。「人生」は実(まこと)に、小説であろうとなんであろうと直接語るには適さず、それ故、小説家たち(やその他諸々の書き手たち)はそれを語るべきどのように優れた間接的なやり方があるか探し続けてきたからである。
最近、ぼくの考え方は少し変わった。小説家たちの「間接的なやり方」への努力は、結局のところ「人生」を遠ざけてきただけなような気がするようになったからだ。そして、いくら遠ざけようと、人は自分自身の「人生」と無関係に生きてゆくわけにはいかないのである。
最近、芥川賞をとった『海峡の光』(新潮社)の主人公「斉藤」は函館少年刑務所の船舶訓練教室の副担当官だ。その「斉藤」のところに受刑者として入所して来た「花井修」は、小学生の頃、「斉藤」にひどい苛めを加えた人物だった。
作者は、転変を繰り返して来た「斉藤」やその他の「人生」を描く。たくさんの苦しみがあり、自殺者があり、信頼への裏切りがある。しかし、それはどれほどうまく描かれようと、どうってことはない。なぜなら、そんな人生もあるよとしか言えないからだ。
その一方で「斉藤」は「花井修」を凝視し続ける。「花井修」の「人生」はどのようなものだったのか。「花井修」はいまも昔と変わってはいないのか。結論が出ぬまま、出所の日がやって来る。そして、ほとんど最終頁に近く、「花井修」の口から決定的な言葉が吐かれるのである。それは純粋な「悪意」の言葉だ。「花井修」が「悪意」の言葉を吐いた瞬間、作品の様相が一気に変わってしまう。最終頁の「花井修」の「悪意」の言葉が光となって、前のすべての頁を照らしはじめるのである。なぜ、そんなことができるのか。それはその「悪意」が純粋であると読者に感じられるからであり、なぜそう感じられるかというなら、そこには不必要な説明がないからだ。
ポツンと「悪意」に満ちた言葉が置かれる。そのことが読者に納得された時、はじめて『海峡の光』という作品は成立する。純粋な「悪意」は光となる。光は説明できない。どの個人にとっても「人生」が説明できないのと同じように。いや、それは正確な言い方ではないだろう。「人生」はある種の「光」によって浮かび上がらせるより他に書く術はなく、それ故その「光」の性質と同じように、説明できぬものなのである。「光」より間接的なものはなく、またそれ以上に直接的なものもない。
描かれるべきなのは「光」なのだ。我々には「花井修」が必要なのである。
【この書評が収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする









































