書評
『バリ島芸術をつくった男―ヴァルター・シュピースの魔術的人生』(平凡社)
ケチャの歴史は七十年だった
伝統なんてもののルーツは、意外といいかげんだったりする。私の故郷、北海道には、鮭をくわえた木彫りの熊がアイヌ民芸ということになって売られているが、べつにあれは伝統でもなんでもなくて、比較的最近になって始められたものだ。もちろん伝統的な木彫技術が活かされてはいるけれども。全国のあちこちで行われている祭りにしても、意外と歴史の浅いものが多い。伝統なんてそんなものだ。バリ島にケチャという歌+踊りがある。合唱の仕方がとても複雑で、いかにもオリエンタルな雰囲気なのだけど、じつはまだ誕生してからほんの七十年ぐらいしか経っていない。しかもつくったのは、ロシア生まれのドイツ人だった。
じゃあ、ケチャはインチキ伝統芸能なのだろうか。
伊藤俊治著『バリ島芸術をつくった男』は、くだんのドイツ人、ヴァルター・シュピースの評伝である。彼は一八九五年に生まれ、一九二七年、バリに移住する。バリ島絵画を指導し、ケチャをつくり、呪術劇チャロナランをつくる。欧米に対してはバリの魅力の宣伝役として、バリに対しては新しい芸術の指導者として働いた。
じつはこの本を読むまで、シュピースは観光ビジネス目的で伝統芸能をでっち上げたうさんくさいやつ(ハワイにおけるコダックのような存在)と思っていたのだが、それは大変な誤解であったようだ。すまん、シュピース。彼は純粋にバリに魅了され、その風土の中で自分の芸術をつくろうとし、そこにバリの人々も巻き込んだのである。バリ絵画やケチャは彼とバリの人々との共作だ。
ヨーロッパ時代のシュピースは新即物主義運動に属し、ルソーから影響を受けていたという。ならばバリ絵画はオットー・ディックスやゲオルグ・グロッスの親戚みたいなものだ。
一九四二年、シュピースを乗せセイロンに向かった船は、日本軍の爆撃を受けて沈んだ。すまん、シュピース。
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