書評
『首里城への坂道 - 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』(中央公論新社)
調査・史料に残った戦前の文化
明治12(1879)年の「琉球処分」と首里城明け渡しによって王国が崩壊したあと、琉球文化が衰亡の一途をたどるなか、昭和初期、空前の「沖縄ブーム」が起こり、その後一転して戦時下「本土防衛」の島とされ、王国の記憶をとどめるものの大半が戦塵に消えた沖縄。「本土」に翻弄され続けるなかで、遺された琉球文化の痕跡を入念に探る調査と史料収集を、16年にわたり黙々とやり通した人がいた。大正10(1921)年、美術教師として東京から赴任した鎌倉芳太郎である。もし彼がいなかったら、そして彼が撮りためた乾板写真と手書きで複写された史料がなかったら、首里城の取り壊しの阻止も後の復元も、紅型(びんがた)染織の技法の再生もありえなかった。が、その縁の下ともいうべき仕事は、死後30年ほとんど忘れ去られている(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2013年)。
10代で両親をあいついで亡くした著者は、両親の生地、沖縄に足繁く通うようになる。そのなかで鎌倉の存在を知り、その生涯を賭けた仕事を虱つぶしに調べ、宮古、八重山へとその足跡をことごとく辿りなおした。鎌倉がフィールド調査に身を捧げたのとほぼ同じ期間を費やして。
祭祀空間や工芸品の調査・収集、古文書や建物の設計図の筆写、そして夥しい人びとへの聴き取り。鎌倉の仕事はしかし、孤独の作業ではなかった。沖縄の下宿先で母のように首里の言葉と習俗を教えてくれた婦人、行く先々で助けてくれた無名の人びと、末吉麦門冬(すえよしばくもんとう)、伊波普猷(いはふゆう)ら「沖縄学」の同志、本土から後方支援した学者たち。そして彼自身の晩年の大仕事。それらの糸が、鎌倉が35年ぶりに沖縄を訪れたときに一つに撚(よ)り合わさってくる結末に、深く心を揺さぶられた。
何かを記録しようという欲望は、その大きさ、深さに圧倒されることで立ち上がるが、著者の場合、それは自身の生存の未生と未来を探る旅でもあった。
朝日新聞 2013年09月08日
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