書評
『拳闘士の休息』(河出書房新社)
ギリシャ神話に、神々によって岩を頂上まで運び上げる刑罰を科されたシーシュポスの挿話がある。岩は頂上に達するや、その重さで落下。シーシュポスは決して成就されることのない無益な仕事を、果てしなく繰り返さなくてはならないのだ。カミュは哲学的エッセイ集『シーシュポスの神話』の中で、しかし、この労苦を絶望とはとらえない。死に反抗し、生きる情熱を燃やすシーシュポスの「神々を否定し岩を持ち上げるという至高の誠実」を讃え、永遠に岩を運び続けなくてはならない絶望的な状況ですら「すべてはよし」と判断し、頂上を目指す闘争を止めない彼こそが、人間の自由であり勝利の似姿であると説いているのだ。
トム・ジョーンズの処女短編集『拳闘士の休息』には、戦争という極限状況の中でしか己を生かすことのできない兵士、癲癇の発作に苦しむ元海兵隊員、末期ガンによる死の恐怖にさらされている初老の女性、本物の愛に気づかず女から女へと遊び歩くプレイボーイ、性悪な女に入れあげた知能の遅れた青年、一時的な記憶喪失によって徘徊する病を抱えながらボンベイの町をさまようコピーライターなどなど、どこか壊れた人物ばかりが登場する。彼らは、ワンダフル・ワールドとはとても呼べない過酷な場所で、不条理な運命に翻弄され、損なわれてしまった人々なのだ。しかも、そこに癒しや救いはない。
しかし、なぜかジョーンズの小説は明るいのだ。もちろん二〇〇ワットの白熱球が煌々(こうこう)と灯るような明るさではない。真っ暗なトンネルの闇の遠く向こうの出口から差し込んでくる、ほのかな薄日、そんな感じなんである。しかし、これだけ悲惨な状況や壊れた人物を描きながら、なぜ明るさを獲得できるのか。それは、訳者の岸本佐知子さんが「あとがき」にも書いているように、ジョーンズの文章は「痛みそのものであるような生を、あるがままに受け入れ、根底で激しく肯定している」からだろう。
つまり、「すべてはよし」ということなのだ。与えられる数々の不条理な試練を「よし」と受け入れるその瞬間ごとに、人は自らの運命に打ち克っているということなのだ。そこにしか希望はない、と作家は呟(つぶや)いているのだ。
カミュは言う。「幸福なシーシュポスを思い描かねばならぬ」。ジョーンズの壊れた登場人物たちは、まさにその「幸福なシーシュポス」なんである。
【この書評が収録されている書籍】
トム・ジョーンズの処女短編集『拳闘士の休息』には、戦争という極限状況の中でしか己を生かすことのできない兵士、癲癇の発作に苦しむ元海兵隊員、末期ガンによる死の恐怖にさらされている初老の女性、本物の愛に気づかず女から女へと遊び歩くプレイボーイ、性悪な女に入れあげた知能の遅れた青年、一時的な記憶喪失によって徘徊する病を抱えながらボンベイの町をさまようコピーライターなどなど、どこか壊れた人物ばかりが登場する。彼らは、ワンダフル・ワールドとはとても呼べない過酷な場所で、不条理な運命に翻弄され、損なわれてしまった人々なのだ。しかも、そこに癒しや救いはない。
しかし、なぜかジョーンズの小説は明るいのだ。もちろん二〇〇ワットの白熱球が煌々(こうこう)と灯るような明るさではない。真っ暗なトンネルの闇の遠く向こうの出口から差し込んでくる、ほのかな薄日、そんな感じなんである。しかし、これだけ悲惨な状況や壊れた人物を描きながら、なぜ明るさを獲得できるのか。それは、訳者の岸本佐知子さんが「あとがき」にも書いているように、ジョーンズの文章は「痛みそのものであるような生を、あるがままに受け入れ、根底で激しく肯定している」からだろう。
つまり、「すべてはよし」ということなのだ。与えられる数々の不条理な試練を「よし」と受け入れるその瞬間ごとに、人は自らの運命に打ち克っているということなのだ。そこにしか希望はない、と作家は呟(つぶや)いているのだ。
カミュは言う。「幸福なシーシュポスを思い描かねばならぬ」。ジョーンズの壊れた登場人物たちは、まさにその「幸福なシーシュポス」なんである。
【この書評が収録されている書籍】
初出メディア

チッタ(終刊) 1997年4月号
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