書評
『パリ』(白水社)
飽食と格差の都を描いた“予言”の書
本書を手にとって巻末解説に目を通された読者は一八九八年刊のゾラの原書がすでに明治四一年(一九〇八)に飯田旗郎(きろう)(旗軒)によって日本語に翻訳されていたことに驚くにちがいない。ゾラの受容は早く、ほとんど同時代的だったのだ。しかし、本当に驚くのは、巻を閉じ、明治四一年という年を年表によって確認してからのことにしていただきたい。なぜなら、資本主義の発達と民主主義の機能不全で貧富の格差が拡大し、いらだったインテリと民衆の一部が爆弾テロに走るという世紀末パリの状況を総合的に描いたゾラのこの小説は、翻訳の二年後の一九一〇年に日本で起きる大逆事件をかなりの精度で予言しているからである。
だが、本書を予言の書として読むつもりになったら、このレベルで止(や)めてはいけないのだ。ゾラの描く「飽食と格差の都パリ」をグローバルに拡大して二一世紀の地球を視野に入れるなら、ゾラは資本主義が行き着いた二一世紀初頭に「九・一一」的状況が生まれる必然を百年前に描ききっていることが確認されるからである。
『パリ』の時代背景は、サクレ・クール寺院の建設が進む世紀末。狂言回しを兼ねる主人公は、三都市双書の前二巻『ルルド』『ローマ』と同じピエール・フロマン。真の信仰を求めて聖職者となり、この二都市を遍歴したが、答えを得られぬまま舞い戻ったパリで、格差の現実に直面して信仰を失いかけている。陋屋(ろうおく)で死に瀕(ひん)している老人を救おうと奔走するうち慈善事業にかかわる大ブルジョワ一族デュヴュイヤール男爵家と知り合いになり、腐敗堕落する上流階級と、格差に呻吟(しんぎん)する下層階級の同時的観察者の役目を演じることになる。折から大掛かりな疑獄事件が暴露される一方、民衆の間では社会秩序を爆弾テロによって破壊しようとするアナーキズムが広がり、社会不安が醸成されている。
そんなとき、ピエールは元機械工サルヴァがデュヴュイヤール男爵家や議会などのいたるところに出没し不審な行動をとっているのを目撃する。だが驚いたのは、化学者の兄ギヨームとサルヴァがなにかを話し合っている現場を見てしまったことだ。やがてピエールの不安は現実となり、サルヴァはついに直接行動に出て男爵の馬車を爆弾で破壊しようとするが失敗、代わりに配達に来ていた帽子女工が爆死する。偶然爆発現場に居合わせたピエールは、サルヴァの跡を追って導火線の火をもみ消そうとして負傷した兄を救い出し自宅に連れ帰る。ギヨームはピエールの介護を受けて回復するが、サルヴァが逮捕されて処刑されると、それをきっかけに、あるとてつもない計画を実行に移そうと決意する……。
以上がおおよその概略(あらすじ)だが、本当のことをいうと、本書の主人公は、ピエールやギヨームではない。むしろ彼らの心情を象徴するがごとく、時に絶望的に、ときに希望に満ちた様相で描かれるパリそのものである。パリという大都市こそは集団的無意識によって動かされながら、徐々に姿と構造を変えていく象徴とゾラが見なしているからだ。
と、このように百年ぶりに蘇(よみがえ)った本書をパリで読みながら、いま、二一世紀の集団的無意識を反映している都はどこなのだろうと考えてみた。ニューヨーク? 上海? いや、もしかすると東京かも知れない。少子高齢化という人類未経験の二一世紀的集団的無意識を映す唯一の都市なのだから。(竹中のぞみ訳)