書評
『ポール・ヴァレリー 1871‐1945』(法政大学出版局)
官能的な肉体に宿った自省的知性
戦前から戦後にかけてのフランス文学ファンには小林秀雄経由が多かったが、そのコースは『地獄の一季節』からランボーに行く感覚派と、『テスト氏』からヴァレリーに行く知性派とに分かれていた。どちらかといえばヴァレリー派だった私は大学三年のとき清水徹講師による「『若きパルク』演習」でフランス語の原文に接し、禁欲的なテスト氏の脳髄から出たとは考えられない豊饒(ほうじょう)な官能性に驚いた。決定版評伝と銘打たれた本書の主眼もこの「官能的なヴァレリー」の復権にある。
ポール・ヴァレリーは一八七一年、地中海の港町セットでコルシカ出身の税関吏の次男として生まれた。母親はイタリア領事ジュリオ・グラッシの娘で「ポールが子どもの頃(ころ)、家のなかではあまりフランス語は使われなかった」。ヴァレリーは両親を介してイタリアにつながる地中海人なのだ。モンペリエのリセに進学する頃から内面への沈潜が始まり、「帰宅するやいなや、がむしゃらに読書の世界に没入する」。こうした地中海的官能性と内面への沈潜という対立はモンペリエ大学に進んでも変わらない。
転機は、休暇を得て兵役から戻り、一八九〇年五月二六日にモンペリエ大学創設六百周年の祝宴に出席したときに訪れる。パリからやってきた一人の青年とカフェで話をしているうちに意気投合、長らく捜し求めていたアルテル・エゴ(もう一人の自分)に出会ったと感じる。青年は早熟な詩人ピエール・ルイスだった。ヴァレリーは後にルイスとの出会いを生涯最大の事件と見なすに至る。やがてルイスを介してアンドレ・ジッドと知りあい生涯の友情を結んだヴァレリーはパリに上り、マラルメの火曜会に加わって象徴派詩人の仲間入りを果たすが、突如、危機に見舞われる。モンペリエの街中ですれ違ったロヴィラ夫人の幻影が強迫観念になり、詩作が不可能になったのだ。
だが、一八九二年十月、ジェノヴァ滞在中の一夜、文学史でランボーの詩作放棄にも比せられる非宗教的な回心が訪れる。ヴァレリーは己の中の官能性と詩人を強く抑圧し、「自分自身に対して透明な存在になった」のだ。ヴァレリーの精神は安定し、『ムッシュー・テストと劇場で(テスト氏)』が生まれる。以後、ヴァレリーは早朝にノート(カイエ)に想念を書きつける以外、文学的活動のほとんどを放棄し、長い沈黙に入る。職業的安定と結婚は、会話好きな社交界人士にして善き家庭の父ヴァレリーを誕生させる。
しかし、一九一二年、ガリマールから詩集の出版を懇請され、自作の詩を手直ししているとき、「突然、アレクサンドランの一行が湧(わ)いてくる。『そこで泣いているのはだれ、こんな時刻、一陣の風でないとしたら?』。彼の栄光を作ることになる『若きパルク』の第一行目が、そっくりそのまま、あらゆる思惑から解放されたところから湧き出てきた」。
かくして、詩人として蘇(よみがえ)ったヴァレリーが『若きパルク』草稿の批評を請うたのは、いまは尾羽打ち枯らしていたピエール・ルイスだった。ルイスの繊細で厳密な批評眼は「ヴァレリーに欠けていた土台を提供してくれる」。
二〇世紀で最も鋭敏で自省的な知性が官能的な地中海人の肉体に宿るというパラドックス。最晩年でも愛人をつくり、常に多くの女性に支えられて生きたヴァレリーとは、まさに「正」と「反」が「合」を生む弁証法的な存在であり、純粋知性だけのテスト氏では決してなかったのである。(松田浩則・訳)
【新版】
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