書評
『アフターダーク』(講談社)
えっ? んで? だから何? 村上春樹の書き下ろし長編小説『アフターダーク』を読みながら、読み終えた後もしばらく渦巻く脳内クエスチョン。これが出版される前、版元の講談社は粗筋に関して箝口令めいたものを敷いてですねえ、「○○の話らしい」「××が出てくるらしい」ってな感じで情報を断片的に書店に流して、読者の読みたい欲をあおるだけあおっておったわけですよ。……下品っ! こんな程度のプロット、なぁーんも隠す必要ないでしょ。ネタばらししたからって、読書の興をそぐタイプの小説じゃないでしょ、これは。あ、逆に、こんな程度のひねりしかない小説だから、ある種の情報操作で読者の飢餓感をあおらなきゃバカ売れしないとでも怯えたんでありましょうか、ひょっとして。
いや、ヘタではないんですよ。そこはなんたって村上春樹ですから。凡百の作家よりはいつだってマシ。春樹度がそこそこ高い作品だから、熱心なファンなら十二分に満足のいく作品ではございましょう。いわゆる“マグノリア”スタイルの叙述になってんです。ほら、ポール・トーマス・アンダーソン監督の映画。ロサンゼルス郊外のとある一日、一〇数人の男女が織りなす人生模様を綴った群像劇なんですけど、それを何の予断も持たないカメラの目で追うってのを強調する撮り方をしてたのが斬新な映画でございましたな。
で、この小説でカメラに相当するのが〈私たち〉。夜の一一時五六分、〈ひとつの巨大な生き物に見える〉都市を〈空を高く飛ぶ夜の鳥の目を通して〉とらえている〈私たち〉の視点が繁華街を選び、やがてデニーズの店に。夜目のきかない鳥が、果たして深夜に空高く飛ぶものなのかどうかという疑問はとりあえず措いておくとして、この後、〈私たち〉は一人の女の子に目をとめるわけですけど、なぜ彼女なのか、〈その理由はわからない〉んですね。この小説のポイントのひとつはそこにあります。〈私たち〉というカメラの後ろにいる撮影監督であるところの作者は、当然明らかに恣意的にその女の子を選んでいる。けれど、その理由はわからないままにしておかなければならない。なぜか――。〈私たち〉の中には読者も含まれているからです。ゆえに、今この小説を読んでいる読者にわからないことは〈私たち〉にもわからなくてOK。この、実に便利なスタイルを誠実に利用して村上春樹は、たとえば映画『マグノリア』にあったカエルが空から降ってくるような不思議な出来事も、“わからない”まま放置します。こうして、深夜一一時五六分から翌朝の六時五二分までに数人の男女の身に起こったことが、物語に介入することが許されない〈私たち〉の若干の人間味漂うニュートラルな視点によって報告されていくわけですが、この小説の読みどころは、そんな今どきエンタメ作家でもよくやる手口のスタイルにあるわけでも、数人の男女の身に起きる、ダークだったり不思議だったり優しかったりする出来事の数々にあるわけでもなく、あるスタイルを選択した時、作家がどこまでそれに伴う約束事に忠実に、少しもズルをしないで小説を書きうるか、その克己心だったりするんですね。で、その点に関しては、村上春樹はクリアできているわけです。が、だからといって、面白いかどうかは別。『マグノリア』の一〇分の一の感興ももたらさない凡作というべきでありましょう。
【この書評が収録されている書籍】
いや、ヘタではないんですよ。そこはなんたって村上春樹ですから。凡百の作家よりはいつだってマシ。春樹度がそこそこ高い作品だから、熱心なファンなら十二分に満足のいく作品ではございましょう。いわゆる“マグノリア”スタイルの叙述になってんです。ほら、ポール・トーマス・アンダーソン監督の映画。ロサンゼルス郊外のとある一日、一〇数人の男女が織りなす人生模様を綴った群像劇なんですけど、それを何の予断も持たないカメラの目で追うってのを強調する撮り方をしてたのが斬新な映画でございましたな。
で、この小説でカメラに相当するのが〈私たち〉。夜の一一時五六分、〈ひとつの巨大な生き物に見える〉都市を〈空を高く飛ぶ夜の鳥の目を通して〉とらえている〈私たち〉の視点が繁華街を選び、やがてデニーズの店に。夜目のきかない鳥が、果たして深夜に空高く飛ぶものなのかどうかという疑問はとりあえず措いておくとして、この後、〈私たち〉は一人の女の子に目をとめるわけですけど、なぜ彼女なのか、〈その理由はわからない〉んですね。この小説のポイントのひとつはそこにあります。〈私たち〉というカメラの後ろにいる撮影監督であるところの作者は、当然明らかに恣意的にその女の子を選んでいる。けれど、その理由はわからないままにしておかなければならない。なぜか――。〈私たち〉の中には読者も含まれているからです。ゆえに、今この小説を読んでいる読者にわからないことは〈私たち〉にもわからなくてOK。この、実に便利なスタイルを誠実に利用して村上春樹は、たとえば映画『マグノリア』にあったカエルが空から降ってくるような不思議な出来事も、“わからない”まま放置します。こうして、深夜一一時五六分から翌朝の六時五二分までに数人の男女の身に起こったことが、物語に介入することが許されない〈私たち〉の若干の人間味漂うニュートラルな視点によって報告されていくわけですが、この小説の読みどころは、そんな今どきエンタメ作家でもよくやる手口のスタイルにあるわけでも、数人の男女の身に起きる、ダークだったり不思議だったり優しかったりする出来事の数々にあるわけでもなく、あるスタイルを選択した時、作家がどこまでそれに伴う約束事に忠実に、少しもズルをしないで小説を書きうるか、その克己心だったりするんですね。で、その点に関しては、村上春樹はクリアできているわけです。が、だからといって、面白いかどうかは別。『マグノリア』の一〇分の一の感興ももたらさない凡作というべきでありましょう。
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