書評
『魂萌え!〔上〕』(新潮社)
これまで冒険といえば、世間知&経験値ゼロの少年少女か、お姫様を救出せんと竜の棲む洞窟に挑む若き騎士か、世界の平和を守るために戦うマッチョなソルジャーなんかがするものでした。で、女、とくに中年以降の女は家で勇者の帰りを待ってろ、そんな扱いだったわけです。ところが! 年齢も違えば、立場も違うさまざまな女性の心の奥深くにひそむ欲望や悪意や真意を、時に優しく、時に厳しい筆致で深く描いてきた桐野夏生の新作で冒険するのは、五十九歳の主婦なんであります。
ある日、趣味で習っている蕎麦打ち教室から帰った夫の隆之が心臓発作で急死。呆然とするばかりだった専業主婦の敏子が、世間というこれまであまり縁のなかった広い海に出て、見たくないものを見たり、知りたくなかったことを知ったり、そのことで傷ついたり、怒ったり、自信喪失したりしながらも、新しい自分を発見し、生きる力を充実させていく過程を描いた、これは立派な冒険小説なのです。
アメリカに行きっぱなしで、結婚した時も子供ができた時も報告にさえこなかったくせに、財産分与を迫る長男。母親の味方ではあるけれど、今つきあっている彼氏との将来を考えるのでいっぱいいっぱいだから、つい自分優先の発言をしてしまう長女。我が子の身勝手さにショックを受ける敏子に追い打ちをかけるかのように、石部金吉かと思っていた隆之に十年もの長きにわたってつきあっている愛人がいたことが判明します。やってらんないとばかりに、敏子はプチ家出を試みて、カプセルホテルに逗留(とうりゅう)するのですが――。
これが冒険の第一ステージ。「若い人から見たら、老人と思うでしょうけど、案外気持ちは若いし、体力もある。中途半端な時期」に夫に先立たれた敏子は、以降、蕎麦打ち教室の先生や仲間の知遇を得たり、不倫を体験したり、夫の愛人と直接対決を果たしたり、仲はよかったもののこれまで本音を言い合ったことのない高校時代からの旧友との関係性を変化させるなど、いろんな冒険に挑み、失敗したり、悩んだり、怯えたりと、たくさんの感情に翻弄されながら成長を遂げていくのです。
敏子が抱く当惑を、同じように抱えている五十代の女性は多いのではないでしょうか。夫を亡くした当初の敏子同様、容赦なく現実を突きつけてくる世間を前に怯え、足をすくませている主婦は大勢いるのではないでしょうか。良くも悪しくも、他人から注目を浴びるような事件は起こらないし、絶讃されるような偉業をうち立てることもない。初老の主婦の日常に横たわっているのは、おそらく、気がつけば時間が解決していたという程度の戸惑いや悩みなのでしょう。でも、そんな端から見ればささやかで取るに足らない悩みでも、本人にとっては重大事なのです。立ち向かおうと決意した彼女にとって、それはゴールも正しい道もわからないままはじめる大冒険なのです。桐野夏生は、そんな大勢の彼女たちに、この小説を通じて力強いエールを送っているのです。
五十九歳の敏子と共に生きる。冒険する。そして「失うものがあれば、必ず得るものもある。失うものが大きければ大きいほど、もっと貪欲に得ようとしなければならないのだろうか。これからは、今までしたことのない経験を沢山しよう。すると、体がぶるっと震えた。欲張りな願いには付いていけそうもない、と体の方が怯んだようにも思えた」という敏子に共感するように、この小説を読んできたあなたの体もぶるっと震える。魂が萌えいづる予感にぶるっと震える。これは、そんなリアルな体感を伴う、主婦の主婦による主婦のための小説なのです。
【下巻】 【単行本】
【この書評が収録されている書籍】
ある日、趣味で習っている蕎麦打ち教室から帰った夫の隆之が心臓発作で急死。呆然とするばかりだった専業主婦の敏子が、世間というこれまであまり縁のなかった広い海に出て、見たくないものを見たり、知りたくなかったことを知ったり、そのことで傷ついたり、怒ったり、自信喪失したりしながらも、新しい自分を発見し、生きる力を充実させていく過程を描いた、これは立派な冒険小説なのです。
アメリカに行きっぱなしで、結婚した時も子供ができた時も報告にさえこなかったくせに、財産分与を迫る長男。母親の味方ではあるけれど、今つきあっている彼氏との将来を考えるのでいっぱいいっぱいだから、つい自分優先の発言をしてしまう長女。我が子の身勝手さにショックを受ける敏子に追い打ちをかけるかのように、石部金吉かと思っていた隆之に十年もの長きにわたってつきあっている愛人がいたことが判明します。やってらんないとばかりに、敏子はプチ家出を試みて、カプセルホテルに逗留(とうりゅう)するのですが――。
これが冒険の第一ステージ。「若い人から見たら、老人と思うでしょうけど、案外気持ちは若いし、体力もある。中途半端な時期」に夫に先立たれた敏子は、以降、蕎麦打ち教室の先生や仲間の知遇を得たり、不倫を体験したり、夫の愛人と直接対決を果たしたり、仲はよかったもののこれまで本音を言い合ったことのない高校時代からの旧友との関係性を変化させるなど、いろんな冒険に挑み、失敗したり、悩んだり、怯えたりと、たくさんの感情に翻弄されながら成長を遂げていくのです。
自分が産んで育て、愛おしくて堪らない存在だった子供たちの心が、いつしか自分に寄り添わなくなったと感じられて久しい。家事育児に専念してきた自分の時間とは何だったのだろう。良い母親だったはずの自分が、成長した子供たちに顧みられなくなっていく。夫も、貞淑な妻の自分を裏切っていた。これからは、母でも妻でもない時間を一人でたっぷりと生きなくてはならないのだ。どうすればいい。
敏子が抱く当惑を、同じように抱えている五十代の女性は多いのではないでしょうか。夫を亡くした当初の敏子同様、容赦なく現実を突きつけてくる世間を前に怯え、足をすくませている主婦は大勢いるのではないでしょうか。良くも悪しくも、他人から注目を浴びるような事件は起こらないし、絶讃されるような偉業をうち立てることもない。初老の主婦の日常に横たわっているのは、おそらく、気がつけば時間が解決していたという程度の戸惑いや悩みなのでしょう。でも、そんな端から見ればささやかで取るに足らない悩みでも、本人にとっては重大事なのです。立ち向かおうと決意した彼女にとって、それはゴールも正しい道もわからないままはじめる大冒険なのです。桐野夏生は、そんな大勢の彼女たちに、この小説を通じて力強いエールを送っているのです。
五十九歳の敏子と共に生きる。冒険する。そして「失うものがあれば、必ず得るものもある。失うものが大きければ大きいほど、もっと貪欲に得ようとしなければならないのだろうか。これからは、今までしたことのない経験を沢山しよう。すると、体がぶるっと震えた。欲張りな願いには付いていけそうもない、と体の方が怯んだようにも思えた」という敏子に共感するように、この小説を読んできたあなたの体もぶるっと震える。魂が萌えいづる予感にぶるっと震える。これは、そんなリアルな体感を伴う、主婦の主婦による主婦のための小説なのです。
【下巻】 【単行本】
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