書評
『横尾忠則自伝―「私」という物語1960‐1984』(文藝春秋)
比類ないほど面白いエピソードの数々
不思議な感触の自伝である。なぜなら描かれているのは著者自身で、描いているのも著者自身であるはずなのに、この二人の間にはまるで自分であって自分でないものを語っているような奇妙なクッションが置かれているからだ。それは実際に経験したという幽体離脱における霊魂と肉体の関係に似ている。ある朝ホテルで目を醒ました著者は、メイドの肩を叩くが、メイドは背後に誰もいないのを知って逃げ出す。<どうやらぼくの姿は誰にも見えないようだ。《もしかしたらぼくは寝ている間に死んでしまったのかもしれない。だからぼくは霊魂になってしまったのだ》。そう考えたぼくは一刻も早く自分の肉体に戻らなければならないと思ってベッドで眠っているもう一人の僕に飛びかかるようにして「彼」の肉体の中に舞い戻ったのである>『自伝』はまさに、この「離脱」と「舞い戻り」を一種の方法論として書かれている。したがって、神秘的な感触はあるのだが記述自体は驚くほど覚めている。そして、書き留められているエピソードというのがどれも比較のしようのないほどおもしろい。
一九六〇年安保の年、上京して日本デザインセンターに入社した著者は、ある日、朝日麦酒の課長の頭をパネルで殴ってしまう。「クライアントを殴ってしもた、えらいことをしてもうた、どないしよう」。ところが謝りにいくと、課長のほうが平身低頭で一件落着。その関係か朝日麦酒の旭日旗が横尾イラストのシンボルとなる。
田畑のど真ん中の家に引っ越すと、蠅がものすごいので蠅取り名人になる。「あまりの早業のため、大抵の人は僕が蠅をつかんだ瞬間がわからない」。まるで宮本武蔵である。
そのうち、モダンデザインに前近代的イメージを詰め込んだ著者のポスターが憧れの三島由紀夫の目にとまる。<突然画廊の入口で大きな声がした。「ウワッハッハッハッ、アメ公の女と日本の海軍旗か」まぎれもない三島由紀夫の声だ。(……)太い眉毛の下のギョロッとした眼は睨みつけているようにも、笑っているようにも見え、時々顔をしかめる様子は子供がベソをかいているようにも見えた>。どうしてなかなか鋭い観察眼である。
三島とはその後、魂の兄弟のような関係になる。三島の出た映画『人斬り』を見て「三島さん、映画の中で本当に腹を切って死んでしまった方が凄かったのに残念だったですね」というと、三島が真剣な顔になって「どうして君はそんなことがわかるんだ」と睨みつけた。
寺山修司や唐十郎とも知り合い、状況劇場と天井桟敷のポスターを描いて一躍時代の寵児になる。この頃のエピソードは抱腹絶倒のものばかりである。寺山家の電話が留守番電話になったのが楽しくて、何度も電話をかけ歌を吹き込んでしまう。すると夫人から苦情の電話がくる。「歌を吹き込んでテープを玩具にして全部使ってしまったのは横尾さんでしょ! 営業妨害もいいとこよ!」
七〇年に交通事故をきっかけに精神世界とUFOにのめり込み、作風が一変する。八〇年にも同じことがあるのではないかと思っていると、果せるかな風呂場で転倒して骨折する。その瞬間、「シメタ、これでまた作風が変わるぞと胸中で叫んだ」。
ジョン・レノン、サンタナ、リサ・ライオンなどとの交友譚も貴重な時代の証言。ああ、おもしろかったと心から言える一冊である。
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