書評
『戦争と差別について哲学は何を言えるのか: 門脇俊介 社会哲学講義』(青土社)
四半世紀前の講義 今、迫ってくる
著者は二〇一〇年に、五六歳の若さで病没した哲学者。本書の主要な部分は、二〇〇一年、世界が騒然としていたとき東大の駒場キャンパスで行われた「社会哲学講義」である。門脇の薫陶を受けた編者の池田氏が、彼の哲学の先駆性について丹念な解説を付している。講義はアリストテレス、デカルト、カント、ロックなどの古典的著作から重要な論点を抜き出しながら、啓蒙(けいもう)主義からロマン主義、さらには現代の多文化主義へと思想の流れをたどる。単なる哲学史の伝授が目的ではなく、歴史的な実例を挙げながら、社会の中で生きる人間が突き当たる根本的な問題に対する答えを聴講者とともに探り、自由意志と行為、正義、道徳的責任などの基本概念を掘り下げる。語る言葉はあくまでも論理的で冷静だが、戦争と差別に向き合おうとする気迫がひしひしと伝わってくる。四半世紀前に行われた講義だが、まさに二〇二六年のいまのためではないかと思えるほどだ。
ここで取り上げられる難問に、「道徳上の運」のパラドクスがある。強制収容所でユダヤ人を大量に殺したナチの役人は、巨大な組織に忠実に務めを果たしただけではないか? 運が悪かったのだ。別の時代と場所に生まれていれば、犯罪とは無縁の人生を送ることができただろうに。
そもそも戦争が始まってしまったら、非道な虐殺が行われたとしても、極限の闘争状態における人間の「自然」なのだから、責任を問えないのではないか? アメリカが日本に原爆を投下したのは悪なのか? 門脇はその決断をしたトルーマン大統領を厳しく批判したイギリスの哲学者アンスコムの論を紹介して、問題を政治的にではなく、あくまでも哲学の立場から考えようとする。
快刀乱麻を断つごとく、とはいかない複雑な問題だが、門脇は現象学や分析哲学の修練を通じて自ら編み出した「理由の空間」という独創的な考え方によって、解答を模索する。「理由の空間」とは、「知識と行為という理由の関係によって織られた、相互主観的な評価の空間」であり、自然法則に支配された空間とは違って、そこに住まう私たちは道徳的責任を免れることはない、というのである。こうして彼は「反自然主義」の立場を鮮明に示す。
世界を見渡すと、正義ではなく取引(ディール)、人の命よりも原油の値段、共感よりもヘイトが大手を振り、大国の横暴も権力者の嘘(うそ)もあえて批判せず、そういう世界のあり方を容認することが「現実主義(リアリズム)」なのだと訳知り顔に説く大人も少なくない。そんな趨勢(すうせい)に逆らって門脇は、人間にとって本当に大事なのは何なのか考えよ、と迫る。荒(すさ)んだ時代にこういう哲学の言葉は清々(すがすが)しい。併録されたエッセイで彼は「哲学は(…)、みずからが思考し真だと信じることを、言葉で表現し、その信念と言葉とに責任をとることではないのか」と問いかける。なんと剛直な言葉ではないか。
巻末に収められた由紀子夫人(自身も英文学研究者である)の回想を読むと、門脇はおよそ「忖度(そんたく)ということをしない人で、家でも外でも思ったことはほぼそのまま口に出した」という。こういう哲学者が今生きていてくれたら、と痛切に思う。
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