書評
『山ん中の獅見朋成雄』(講談社)
舞城王太郎が疾走している。どんなレースでも〈スタートでずどんと前に飛び出てがむしゃらに走って体力の持つ限り前に前に進む〉、この物語の主人公・獅見朋成雄のように。読点をほとんど打たない文体をもって、痛快至極に。
疾走する舞城作品には、だから今の小説にはなはだしく欠けている身体性が溢れ返っている。かの坂本竜馬の背中に生えていた鬣(たてがみ)よりも立派なそれを持つ一四歳の少年・成雄は、オリンピック選手として将来を嘱望されるほどのランナーなのだけれど、彼が秀でているのは脚力だけではないのだ。耳もいい。書道の師であり友人でもある杉美圃(ひぎみほ)モヒ寛(かん)が、何者かによって頭をぶち割られ、その危急を福井の山の中にはいるはずもない一頭の馬によって知らされた成雄は、ずば抜けた体力と機転によってモヒ寛を救うことに成功する。ところが、その証言を警察は信じない。犯人と馬を探すべく、連日山の中にわけ入っていく成雄。
そこで、彼は”音”と出会うのだ。落葉した枝の揺れる音、濃い緑を残した杉の木のたてる音、石の転がる音、トカゲが身動きする音。〈山の内側〉の音に成雄は耳をすます。すると、犯人探しや自分を疑った刑事を見返すとかいった余計な気持ちが薄れていき、〈あの美しい馬をもう一度見たいという気持ちだけが上澄み〉に残る。〈シババン、シバサワリシバン。サカリコシャン。 クワサササ〉。やがて、そうしたたくさんの音の中から、成雄の鋭敏な耳は変わった足音を聞き分ける。〈しむっさしむっさ〉。それは、わらじをはいた三人の男のもの。
ここからの展開が一気呵成だ。不審な三人組と派手な立ち回りを演じた成雄は、木々の梢の間に張り巡らされた〈トンネル〉を通って、異世界へと入っていく。そして、湯殿で鬣を剃り落としてもらい、究極の会席〈盆〉の席につく。そこで供される最高のもてなしが〈人盆〉。〈虫刺されも引っ掻き傷もニキビもオデキも〉何もない完壁な背中と尻を持つ美女の身体を盆に見立て料理を食す、完全無欠の女体盛りである。そして、人盆で供される至高の食材が――。
その後、成雄は心配して追いかけてきたモヒ寛と共に、この世界に居着いてしまう。盆役の女性の体毛を剃り最高のコンディションに整える風呂番となり一年が過ぎるまでを描いた中盤以降も、この新しい世界を成雄は思考ではなく五感によって理解していく。二一二から二二九ページに至る描写がその白眉だ。女性の身体を色欲抜きで解剖のように清潔に扱って、かもされるほのかなエロティシズムと詩情。この小説は、音によって光景や物の輪郭を描くという難しい課題に挑戦していると思うのだけれど、見事にそれに成功した貴重なシーンなのである。
日本昔話と神話と『美味しんぼ』のコラボレーション。舞城王太郎はそんなご無体な小説世界を駆け抜けていく。その速さ、その美しさ、その力、その純情は比類がない。稀有。それはこの作家のために用意された頂の名である。全速力で登れ、舞城王太郎。
【この書評が収録されている書籍】
疾走する舞城作品には、だから今の小説にはなはだしく欠けている身体性が溢れ返っている。かの坂本竜馬の背中に生えていた鬣(たてがみ)よりも立派なそれを持つ一四歳の少年・成雄は、オリンピック選手として将来を嘱望されるほどのランナーなのだけれど、彼が秀でているのは脚力だけではないのだ。耳もいい。書道の師であり友人でもある杉美圃(ひぎみほ)モヒ寛(かん)が、何者かによって頭をぶち割られ、その危急を福井の山の中にはいるはずもない一頭の馬によって知らされた成雄は、ずば抜けた体力と機転によってモヒ寛を救うことに成功する。ところが、その証言を警察は信じない。犯人と馬を探すべく、連日山の中にわけ入っていく成雄。
そこで、彼は”音”と出会うのだ。落葉した枝の揺れる音、濃い緑を残した杉の木のたてる音、石の転がる音、トカゲが身動きする音。〈山の内側〉の音に成雄は耳をすます。すると、犯人探しや自分を疑った刑事を見返すとかいった余計な気持ちが薄れていき、〈あの美しい馬をもう一度見たいという気持ちだけが上澄み〉に残る。〈シババン、シバサワリシバン。サカリコシャン。 クワサササ〉。やがて、そうしたたくさんの音の中から、成雄の鋭敏な耳は変わった足音を聞き分ける。〈しむっさしむっさ〉。それは、わらじをはいた三人の男のもの。
ここからの展開が一気呵成だ。不審な三人組と派手な立ち回りを演じた成雄は、木々の梢の間に張り巡らされた〈トンネル〉を通って、異世界へと入っていく。そして、湯殿で鬣を剃り落としてもらい、究極の会席〈盆〉の席につく。そこで供される最高のもてなしが〈人盆〉。〈虫刺されも引っ掻き傷もニキビもオデキも〉何もない完壁な背中と尻を持つ美女の身体を盆に見立て料理を食す、完全無欠の女体盛りである。そして、人盆で供される至高の食材が――。
その後、成雄は心配して追いかけてきたモヒ寛と共に、この世界に居着いてしまう。盆役の女性の体毛を剃り最高のコンディションに整える風呂番となり一年が過ぎるまでを描いた中盤以降も、この新しい世界を成雄は思考ではなく五感によって理解していく。二一二から二二九ページに至る描写がその白眉だ。女性の身体を色欲抜きで解剖のように清潔に扱って、かもされるほのかなエロティシズムと詩情。この小説は、音によって光景や物の輪郭を描くという難しい課題に挑戦していると思うのだけれど、見事にそれに成功した貴重なシーンなのである。
日本昔話と神話と『美味しんぼ』のコラボレーション。舞城王太郎はそんなご無体な小説世界を駆け抜けていく。その速さ、その美しさ、その力、その純情は比類がない。稀有。それはこの作家のために用意された頂の名である。全速力で登れ、舞城王太郎。
【この書評が収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする




































