書評
『風味絶佳』(文藝春秋)
『ベッドタイムアイズ』で、いろんな意味衝撃的なデビューを果たしたのが一九八五年。作品の内容とはなんの関係もない、黒人と同棲してるだの、ホステスをしていただのといった、くっだらない話題で世間の良識派とやらに叩かれていた山田詠美も、いまや日本文学を代表するベテラン作家。二〇〇三年には、三島由紀夫に次ぐ若さで芥川賞の選考委員にまで就任してしまった。二六歳、デビュー当時のエイミーが、今のこの状況を見たらどう思うだろうか。きっと、とても面白がるにちがいない。でも、天狗になったりはしないだろう。たとえ二〇年後の成功が約束されていても、生き方を変えたりしない。真剣に言葉と向き合う執筆姿勢を変えることは決してない。山田詠美は、人としても上等な小説家なのである。
鳶職、ゴミ収集車の作業員、ガソリンスタンドの店員、引っ越し業者、汚水槽の清掃員、葬儀場の職員。肉体のスキルを持った男たち六人それぞれの佇まい、その風味を描いた短篇集『風味絶佳』でも、そんな上等な人となりをそこここで味わうことができる。
たとえば、離婚して実家に戻った母・小夜子と、今は引っ越し屋になっている母の幼なじみである作並くんの、初恋をやり直しているかのように静かな、それでいて何とも淫靡な関係を、高校生の娘・日向子の目線から描いた「海の庭」という一篇。「引っ越しはおれらにとっては毎日の仕事だけど、お客さんにとっては人生のイベントだから、きっちり掬(すく)い取ってやんなきゃな」と言う作並くんの話を聞くのが好きな日向子が、知り合いのサーファーから作並くんのことを「誰だよ、あのおやじ。さっき、二人でべたべたしてたけど、最低。マジで日向子に似合わねえよ、だせー」と言われてキレるシーンがある。「あんたの方が、余程、おやじだよ、ターコ」。その後の展開と文章が実に、実に実に素晴らしいのだ。
この箇所をわたしは幾度繰り返し音読しただろう。選び抜かれた言葉、それを置く順番、句読点の位置、そして最後に記された一言のような、人として上等でなければ気づかないとても大切な気持ち、まさに“風味絶佳”。万全な一節なのである。
ここに収められた六篇にはそれぞれ、年齢差を越えて心を通わせ合うこの日向子と作並くんのように、誰かと誰かがつながって、それが連鎖反応のように続いていく様子がトーンを違えて描かれている。年上の女性に身の回りの世話を何から何までやってもらっている鳶職の青年が、同時に年下の女の子を甘やかし放題に甘やかす、それこそ聞き分けがない時にふるう暴力も含めて――そんな共依存ともいえるような関係を描く「間食」。汚水槽を掃除する自分のことを〈私は、汚物のために美しい居場所を作る芸術家なのです〉と規定する、〈人に同情することが好き〉な男が、弱り切った小動物のような妻を得て、両親と同居する家の二階に〈二人だけのために完璧に準備された空間〉を作り上げ、静かな絶望に向かって突き進んでいく様を描いた「アトリエ」。この二篇のような、読後背筋がぞくっとする話から、表題作や「春眠」のように温かな気持ちに包まれる話まで、味わいはさまざま。山田詠美が二〇年間に蓄えた作家としての技量、人としての厚みが堪能できる一冊になっているのだ。
やはり好短篇集の『姫君』(二〇〇一年)は『PAY DAY!!!』(二〇〇三年)という傑作長篇へとつながっていった。この『風味絶佳』は一体どんな長篇小説を生み出すのだろう。人と人のつながりを描いたこの短篇集の“連鎖反応”が今から楽しみでならない。
【この書評が収録されている書籍】
鳶職、ゴミ収集車の作業員、ガソリンスタンドの店員、引っ越し業者、汚水槽の清掃員、葬儀場の職員。肉体のスキルを持った男たち六人それぞれの佇まい、その風味を描いた短篇集『風味絶佳』でも、そんな上等な人となりをそこここで味わうことができる。
たとえば、離婚して実家に戻った母・小夜子と、今は引っ越し屋になっている母の幼なじみである作並くんの、初恋をやり直しているかのように静かな、それでいて何とも淫靡な関係を、高校生の娘・日向子の目線から描いた「海の庭」という一篇。「引っ越しはおれらにとっては毎日の仕事だけど、お客さんにとっては人生のイベントだから、きっちり掬(すく)い取ってやんなきゃな」と言う作並くんの話を聞くのが好きな日向子が、知り合いのサーファーから作並くんのことを「誰だよ、あのおやじ。さっき、二人でべたべたしてたけど、最低。マジで日向子に似合わねえよ、だせー」と言われてキレるシーンがある。「あんたの方が、余程、おやじだよ、ターコ」。その後の展開と文章が実に、実に実に素晴らしいのだ。
「作並くん、ごめん」
「なんで日向子ちゃんが謝るの。おれが、おやじなのは事実でしょ」
作並くんは、そう言って、車の中からTシャツを取り出した。その背中が急な日灼けで真っ赤になっている。彼の肌は、作業着から出ている部分しか黒くない。さっきの男が言った通りだ。ほんと、「だせー」。そう思ったら、涙が溢れて来た。
「おい、どうした、どうした」
作並くんは、慌てて私に近寄って肩を抱いて顔を覗き込んだ。目が合った。真底、困り果てたように目尻がたれている。涙が止まらない。だせーおやじ。情けない。でも、人を情けないと思うのと、いとおしいと思うことってなんて似ているんだろう。
この箇所をわたしは幾度繰り返し音読しただろう。選び抜かれた言葉、それを置く順番、句読点の位置、そして最後に記された一言のような、人として上等でなければ気づかないとても大切な気持ち、まさに“風味絶佳”。万全な一節なのである。
ここに収められた六篇にはそれぞれ、年齢差を越えて心を通わせ合うこの日向子と作並くんのように、誰かと誰かがつながって、それが連鎖反応のように続いていく様子がトーンを違えて描かれている。年上の女性に身の回りの世話を何から何までやってもらっている鳶職の青年が、同時に年下の女の子を甘やかし放題に甘やかす、それこそ聞き分けがない時にふるう暴力も含めて――そんな共依存ともいえるような関係を描く「間食」。汚水槽を掃除する自分のことを〈私は、汚物のために美しい居場所を作る芸術家なのです〉と規定する、〈人に同情することが好き〉な男が、弱り切った小動物のような妻を得て、両親と同居する家の二階に〈二人だけのために完璧に準備された空間〉を作り上げ、静かな絶望に向かって突き進んでいく様を描いた「アトリエ」。この二篇のような、読後背筋がぞくっとする話から、表題作や「春眠」のように温かな気持ちに包まれる話まで、味わいはさまざま。山田詠美が二〇年間に蓄えた作家としての技量、人としての厚みが堪能できる一冊になっているのだ。
やはり好短篇集の『姫君』(二〇〇一年)は『PAY DAY!!!』(二〇〇三年)という傑作長篇へとつながっていった。この『風味絶佳』は一体どんな長篇小説を生み出すのだろう。人と人のつながりを描いたこの短篇集の“連鎖反応”が今から楽しみでならない。
【この書評が収録されている書籍】
初出メディア

PHPカラット(終刊) 2005年9月号
ALL REVIEWSをフォローする



![シュガー&スパイス 風味絶佳 [DVD]](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51mfhyHMgFL.jpg)
































