書評
『うたかたの』(文藝春秋)
一人の男を愛した六人の女
前々回、この欄で藤沢周平の短篇「玄鳥」を読んだが、そこで彼の世界に色濃い失われた時と場所への憧れというものに言及して、ついにサウダーデなるポルトガル語まで引っぱりだす破目になった。ところが最近、ポルトガル出身の女性ピアニスト、マリア・ジョアン・ピリスが来日して、その時のインタヴュー記事が偶然目にふれた(『レコード芸術』一九九六年七月号)。
――ポルトガル語でいちばん美しい言葉は〈サウダーデ Saudade〉だと言われますが、ピリスさんにとってこれはいかなるものでしょう。
ピリス ああ、サウダーデ。これは他の国の言葉には訳せない言葉なのね。(略)誰かがいない、何かが欠けている。人でもまた風景でも、自分の好きなものがここになくて、淋しさと憧れ、悲しみとある種の喜びを同時に感じる……それがサウダーデです。シューベルトのD九六〇のソナタがまさにそうです。苦しみながらそれを喜びとする……あのソナタはこの感情を持っています。
そこで、本邦におけるもう一人のサウダーデの作家を。作品は『うたかたの』。六つの短篇よりなる。時は幕末。
ヒーローとヒロインは、「寒椿」では、前途有為の青年儒者、高橋四郎と美貌の美雪。「春の狐」では、一文なしの浪人康之助と若後家のたよ。「樹影」では、おろしやの脅威を説いてうとんぜられる北国の小藩のお抱え儒者、森田匡(ただす)とその妻たまき。「角のない牛」では、追われているらしい長屋住まいの斎藤桂之助と、伝法肌と好色がひとつになったような女つね。「かくれみの」では、お師匠さまと呼ばれる初老の川島葵(あおい)と、孫もいる五十過ぎの未亡人ふみ。「薄闇の桜」は荻水(てきすい)先生という五十過ぎの男と、誘拐(かどわか)されそうになったところを荻水に救われる少女いと。
六人の女が陥ったそれぞれ風味の違う恋と、その恋への向かいあいかたが、簡潔で含蓄ある文で描かれる。たとえば「角のない牛」。
長屋の隅に忽然とあらわれた男、斎藤桂之助が、かつおを釣るには牛の角(つの)にかぎると話す。角のしんは香ばしくて、これを釣針に突き刺して……。牛の角をとるには断崖絶壁に追いつめて棍棒で思いきり角を撲(なぐ)りつける。追いつめられた牛の眼はなぜかおだやかで、澄んでいる。撲られて角がぽつりと落ちたとき、牛はとびあがって、とってもうれしそうな顔をする。
うそ! とつねは思わず叫んだ。痛いじゃない! うそ、うそ。
こんな話をきかせた男の胸にしがみついて過ごした一夜。翌朝、桂之助は消えている。彼を捜して追手がくる。つねは、崖っ縁に追いやられても、ひどくおだやかだったという牛の眼がなぜか忘れられなくなる。
六つの短篇とも最後の場面で女の前から男が姿を消す。あるいは逃げてゆく。
六人の男。じつはこれはぜんぶ変名を使って逃げている一人の男の物語なのだが、女たちのほうは正真正銘、生い立ちも立場も年齢も違う六人の女だ。読み終わってみると、作者が意図したらしい、「老いてゆく男の確実な時間の流れ」が意外と稀薄で、それよりもいっそう色濃く、女たち一人一人の、逃げないで潔くとどまって、大切なものをなくして立ち尽くす、その喪失感、淋しさと憧れ、悲しみと喜びが、いっそうあざやかに、しっとりと輝き出す。ほら、あの角をなくしてなおおだやかな牛の眼のような、苦しみながらそれを喜びとする。サウダーデの世界だ。
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